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【街と街道を歩く】東海道を歩く(田町〜大森海岸)その1

年末のある日、田町から大森海岸まで歩いてみた。
田町駅と品川駅は、仕事やプライベートで頻繁に利用した駅だが、その間を繋ぐ通りはほとんど歩いたことがなかったので、この機会にじっくり観察してみた。

元芝札の辻

田町駅からしばらく南に歩くと、元芝札の辻に出会った。
札の辻は、1616年(元和2年)に大木戸と呼ばれる江戸の入口となる門が設けられ、高札場が置かれた場所だ。
東海道を江戸に向かって歩いて来た旅人が、江戸に入る玄関口であり、ここから先、日本橋と虎ノ門に分岐する追分でもあった。
 高札場のすぐ東には芝浦の海が接し、海の先には房総の山々が望めたそうで、一日中眺めてもあきない景色であったといわれる。
 高札場はその後、1683年(天和3年)に700mほど南下した高輪(後の大木戸の場所)に移されたことから、この場所は「元札の辻」と、呼ばれるようになった。

近くの歩道橋に登り、「元札の辻」を眺めてみた。江戸に入ってきた昔の旅人は、どんな思いで高札を読んだのだろう?

さらに歩いていくと、右手に泉岳寺に入る道に差し掛かった。
昨年5月に日本橋から歩いた際は泉岳寺にも入り、四十七士のお墓参りしたが、今回はお参りせずに通り過ぎた。

現代の元芝札の辻

高輪大木戸

高輪大木戸は、東海道から江戸府内の入口として、また南の出入口として設けられた大木戸の跡だ。
木戸は始め、1616年(元和2年)に高札場が置かれ札の辻に設けられたが、1710年(宝永7年)に 700メートル南の同所に移転し高札場として大木戸が設けられた。

木戸は、始めは街道の両側に築かれた幅約20メートルの土塁の間に木戸を設け、明け六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たした。

現在は、長さ五間(9メートル) 、幅四間(7.2メートル) 、高さ一丈(10尺=3メートル)の石垣が残っている。

西に向かう旅人は、一刻前の暁七ツに日本橋を出立し、明け六ツ高輪大木戸を通過して江戸を旅だった。
大木戸のすぐ東にも江戸湾が広がる。
旅人は、房総半島の山々から昇る日の出を眺めながら大木戸を通過したのだろうか?

ちなみに江戸時代まで、日本の時刻は不定時法だった。
現代の感覚だと明け六ツは午前6時、暮れ六ツは午後6時と思いがちだが、不定時法だった江戸時代の時刻では、明け六ツとは空が白み始めた日の出30分前を指し、暮れ六ツとは空が暗くなる日没30分後を指した。
つまり、夏の昼時間(明け六ツから暮れ六ツ)は長く、冬の昼時間は長かった。

高輪大木戸の跡

品川宿江戸見附と歩行新宿

JRの線路の上、八ツ山橋を渡ると品川宿の江戸見附に出会う。
ここから品川宿の徒歩新宿(かちしんしゅく)が始まる。
歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が1722年(享保7年)に宿場としてみとめられた町で、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足うち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で「歩行新宿」と名付けられている。

歩行新宿の負担人数は年間一万三千人とのことだったようだが、1日あたり35人ということになる。
東海道の場合、各宿場に馬100匹と人足100人を毎日負担することになっていたので、内35人を歩行新宿が負担したということは、北品川や南品川にとっては負担減としては大きかったのだろう。

品川宿周辺は、春には御殿山の桜で花見や海辺で潮干狩り、秋には海晏寺での紅葉狩りが日帰りで行ける江戸の近場の観光地だった。
品川宿には茶屋や飯売旅籠屋が軒を連ねたというが、茶屋は水茶屋(茶を提供を専らとする茶店)というよりは引手茶屋(遊興の仲介業)を兼ねた店が多かったらしく、飯売旅籠屋も宿泊施設というよりは遊郭だった。

江戸に近い歩行新宿や北品川には大店の旅籠が集中し、南品川の旅籠は中小規模の店が多かったようだ。

品川宿江戸見附跡

土蔵相模跡

「相模屋」は、外壁がナマコ壁の土蔵造りだったことから「土蔵相模」と呼ばれた高級妓楼だった飯売旅籠屋だ。
旧東海道に面した歩行新宿にあり、幕末には勤皇志士が出入りし、1862年(文久2年)に御殿山に建設中の英国公使館を焼き払った際には集結地になったという。
「土蔵相模」は明治以降もホテル相模として営業を続けていたが、老朽化のため1977年(昭和52年)に取り壊された。
現在ではコンビニエンスストアの入ったマンションに姿を変えている。
相模屋の近くには引手茶屋「稲葉屋」があり、桜田門外の変では、浪士たちは稲葉屋に集合し、稲葉屋の男に案内されて相模屋にあがったという。

ちなみにナマコ壁とは、建物の壁面に平瓦を貼り「目地」と呼ばれる継ぎ目に漆喰をかまぼこ型に盛り上げて塗った壁で、その形が海にいる「なまこ」に似ていることからなまこ壁と呼ばれるようになったらしい。

高級妓楼「土蔵相模」跡

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