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【歴史小話】和菓子と6月16日

6月16日は和菓子の日だそうだ。
この和菓子の日は語呂合わせではなく、江戸時代の風習「嘉祥」もしくは「嘉定」から来ている。
「嘉祥」は、陰暦6月16日に疫病を防ぐために16個の餅や菓子を神前に供えてから食べた風習だそうだ。
陰暦だから、新暦でいうと今年は8月2日、夏真っ盛りの時期の行事だ。

江戸城の嘉祥(嘉定)

江戸幕府の嘉祥(嘉定)では、陰暦6月16日に大名・旗本が総登城して将軍から菓子を頂戴した。
杉の葉を敷いた片木盆1,612膳にのせられた総数20,324個の和菓子が、江戸城の500畳敷きの大広間に並べられたそうだ。

和菓子の内訳は、
①饅頭588個(3ツ盛×196膳)
②羊羹970切(5切盛×194膳)
③鶉焼(うずらやき)1,040個(5ツ盛×208膳)
④阿古屋(あこや)2,496個(12盛×208膳)※阿古屋貝を模したもので、しんこ餅に小豆餡をのせたものと想像されている
⑤金飩(きんとん)3,120個(15盛×208膳)
⑥寄水(よりみず)6,240個(30盛×208膳)※黄と白のねじったしんこ餅
⑦煮染麩(にしめふ)970個(5ツ盛×194膳)※麩の煮しめ
⑧熨斗操(のしくり)4,900筋(25筋盛×196膳)※アワビを薄くのして干したもの
と8種類もあったそうで、用意するもの大変だったろうと思う。
個人的には熨斗操は遠慮したいなと思ったが、頂戴する側は当然選べなかったことでしょう・・・。

青木直己氏の「下級武士の食日記」によると、「二代将軍秀忠の頃までは、将軍手づから全員に渡され、将軍も二、三日肩が痛かった」そうで、家康、秀忠も大変だったことでしょう。
幕末の頃は、「老中や井伊氏をはじめ特別な大名以外は、数人ずつ菓子をいただき、また将軍も早く大広間を退出」したそうだ。
大名たちは「菓子をいただいて、台盤の上に用意されたそうめんを食べて屋敷に戻」ったそうで、このあたりは如何にも夏の暑い盛りの行事だったことを想起させる。

残った菓子は、「儀式が終わった後、合図とともに茶坊主たちが競って取り合」ったそうで、この辺りは現代にも通じる光景のようで微笑ましい。

嘉祥(嘉定)の由来

嘉祥(嘉定)の始まりについては諸説あるそうで、詳しいことは分かっていない。
平安時代初期の嘉祥年間(848年~851年)という年号を由来とする説や、室町幕府が用いた中国・南宋の貨幣「嘉定通宝」を由来とする説などがあるそうだ。

年号「嘉祥」説は、848年頃、国内に疫病が広まったことから仁明天皇が元号を「嘉祥」と改め、厄除け・健康招福を願い16個の菓子や餅を神前に供え、祈願したというもの。
一方、貨幣説は、嘉定は女房言葉で「かつう」と読んだそうで「勝つ」に通わせ吉祥として室町時代さかんに行われたいうもので、旧暦6月16日に嘉定通宝16枚で食物を買って贈答するようになった説や、室町幕府の納涼の行事で楊弓の試合が行われ、敗者が勝者を中国の宋銭「嘉定通宝」16枚で買った食物でもてなしたといった話もあるらしい。

行事として盛んになったのは室町時代で、江戸時代になると武家社会では主君が家臣に菓子を賜る行事となり、朝廷や民間でもそれぞれ菓子で嘉祥を祝ったそうだ。


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