支援者としてのまなざし

今日は友人の某弁護士先生の講演を聞きに行ってきました。
虐待と児童養護がテーマだったのですが、そこでいくつか心に残ったコメントがあったので自分の思いと合わせて書いてみます。

虐待の枠組みと愛情

今のところ虐待の細かい定義はありません。もちろんあざがある、トラウマ症状があるなどの医学的・心理学的な評価軸はありますが、結果として子どもの健康、発達、尊厳、生命が脅かされているかどうかがポイントとのことでした。
そこに愛情があるかどうかは無関係で、「結果として」子どもの権利が侵害されているものは虐待だと。

ただここで大事なのは「虐待があるからといって、親が愛情を持っていることを否定しない」ということでした。改めて言われると確かにその通りで、僕の患者さんでも子どもを殴ってはいるものの基本的にはかわいがっているケースはたくさんあります。
自分は自然とそう思っていましたが、行動レベルで評価する支援者だとそこは忘れがちなのかなと思いました。

大人を信用してもらう

僕が関わっている子たちは比較的軽症ケースだったり親が最低限の愛情を持っているケースが多いのですが、某先生はがっつり非行系や虐待系に関わっておられます。
そうすると、もう子どもは誰も信用できなくなっているケースが多くあります。家、学校、地域、どこにも安心できる関係性を作れる大人との出会いがなかった子どもたちは、大人全体に対しての信用を失っています。
「どうせ助けてくれない」
「どうせ味方になってくれない」
そういった絶望の中で生きていくのはとても辛い。

信じたくても裏切られ続けてきた子どもが、また大人を信じるのは並大抵の覚悟ではありません。
ですので、我々支援者は子どもがどう振る舞おうと、安定して見守っていく姿勢が求められます。こちらにも相応の覚悟がいる、という訳です。

己の無力さを知る

とは言え、困っている子どもたちの何もかもを救える訳ではありません。我々にも自分の暮らしがあり、それが破綻しない範囲内でしか活動することができません。また、専門家と言ったところで、できることには限りがあります。
でもその「己の限界を知る」ことも、支援を継続していくために、そしてきちんと子どものことを見守るために必要なことなんだなと思いました。

今日は久しぶりに、支援者の熱い思いを感じられる良い話でした。もっと広報してもらっていろんな人に聞いて欲しかった!
これでまた元気をもらって頑張れそうです。

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