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ロシア人が驚嘆した幕末の外交官・川路聖謨とは

幕末にロシア使節プチャーチンと交渉した
幕臣・川路聖謨(かわじとしあきら)。
相手国の人々を魅了した外交官の姿勢とは。

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アジア諸国が次々と植民地化される中で

「来年また来る」と告げ、ペリー艦隊が江戸湾から去ったのは、嘉永6年(1853)6月12日のことでした。

アメリカ艦隊を率いるペリーが来航して開港を迫ったことは、幕末動乱の始まりとして、歴史の教科書にも載る有名な事件です。

その1ヵ月後、今度はロシアのエフィーム・プチャーチンが長崎に来航、国境画定と通商開港を求めました。

こうして文字で書くと、歴史的事実が淡々と並んでいるように感じられますが、交渉に当たった徳川幕府の人々の双肩には、「自分たちの対応が日本の命運を左右しかねない」という重圧がずっしりとのしかかっていたはずです。

というのも当時、インドはイギリス、インドネシアはオランダ、インドシナ(現在のベトナム、ラオスなど)はフランス、フィリピンはアメリカが植民地にしており、さらに隣国の清(しん)はアヘン戦争とアロー号事件によって英仏軍に侵略され、半植民地化されつつあったからでした。

対応を一つ誤れば、日本も同じ道をたどりかねない・・・。そんな中、幕府の外交担当者は、「欧米列強につけいるスキを与えず、話を早急には進めない」ことを求められたのです。

そして長崎に来航したプチャーチンの応接掛(がかり)の一人に抜擢されたのが、勘定奉行の川路聖謨(かわじとしあきら)でした。川路の名前は幕末史において、知名度が高いとはいえないかもしれませんが、ロシア側を驚嘆させた彼の奮闘を今回はご紹介します。

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娘はまだ大人になっていないのです

勘定奉行といえば幕府の高官ですが、53歳の川路はぜいたくをせず、江戸から駕籠も馬も使わずに、毎日宿を早発ちして、ひたすら徒歩で長崎に急ぎました。

川路の父は豊後(現在の大分県)日田の代官所の下級吏員で、御家人株を買って幕臣となっています。川路は幕臣としては最底辺から、持ち前の能力と努力で勘定奉行にまで上った人でした。ちなみに奈良奉行を務めたこともあり、神武天皇陵の発見や、佐保川沿いなどに桜や楓(かえで)を植え、さらに貧民を助けたことで地元では慕われています。

ロシア側との交渉にあたり、川路が心中密かに期していたのは、「談判はぶらかし(ぬらりくらりと言い逃れをして時間を稼ぎ、相手に交渉をあきらめさせる)で要求を封じるしかない」ということでした。軍事力のない日本が、武力を背景に迫る相手に唯一打てる手立てであったでしょう。

ロシア側との初めての会見は12月14日、長崎奉行所西役所においてでした。この時は初顔合わせということで、日本側がロシア側を酒や料理でもてなしています。使節のプチャーチンは海軍中将で皇帝の侍従武官長でもあり、礼儀正しく品位がありました。川路は日記に「眼差しただならず、よほどの者也」と記し、油断ならぬとも書き留めています。

両者の正式会談は12月20日から翌年正月4日まで、6回にわたって行われました。川路は交渉でプチャーチンに一歩も譲らず、激論を戦わせる場面もありましたが、一方で持ち前のユーモアでロシア側を笑わせたといわれます。

たとえばロシア本国でクリミア戦争が勃発し、早く会談をまとめて帰りたいプチャーチンの心情に合わせて、「私の妻は江戸で1、2を争う美しさなので、いつも思い出します。私の体は長崎にいても、心は常に江戸にあるのです」と言ってみたり、

「娘は嫁にやるものですが、大人にならないうちは嫁には出せません。日本の娘(交易)は、まだ大人になっていないのです

と言って、通商を迫る相手をたくみにかわしました。またロシア側が一緒に写真を撮ろうと川路を誘うと、「私のような醜男(ぶおとこ)が日本人の代表だと思われては困る」と言って、一同を爆笑させています。

プチャーチンの秘書官だったイワン・ゴンチャロフは、そんな川路をこう評しています。

「川路を、私たちはみな気に入っていた。・・・彼は私たち自身を反駁(はんばく)する巧妙な弁論をもって知性を閃(ひらめ)かせたものの、なおこの人物を尊敬しないわけにはいかなかった。彼の一言一句、一瞥(いちべつ)、それに物腰までが—すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達を顕(あら)わしていた」(『日本渡航記』)。

結局、半月に及んだ会談では、開港通商の時期や国境の画定についてロシア側になんら明言を与えぬまま、プチャーチンは長崎を出航しています。川路の見事な外交手腕でした。

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誠意を示しつつ、一歩も退かぬ

しかし同年10月、プチャーチンは新鋭艦ディアナ号で再び来航します。再来したペリーと3月に日米和親条約が締結されたため、ロシアも条約調印にやってきたのでした。

今回、プチャーチンは伊豆の下田に来航しており、川路が赴くとディアナ号で大歓迎を受けます。11月3日、日露の代表が顔を合わせますが、翌4日、未曾有の大地震に見舞われました。安政東海地震です。

強い揺れの後、津波が押し寄せ、人家を呑み、田畑は一面の濁流と化します。プチャーチンのディアナ号も座礁して、大きく損傷しました。ところが上陸していたロシア人の乗組員たちは、被災者の救助を懸命に行ったのです。川路はその姿に感動を覚えました。

プチャーチンは壊れたディアナ号を修理すべく、下田から戸田(へだ)村へ回航しますが、途中で風浪のため、ディアナ号は沈没。今度は浜の漁民たちが500人の乗組員全員を救助します。

やむなくプチャーチンは新たな船の建造を幕府に申請しますが、これに全面協力したのが川路でした。相手の弱みにつけこむことをせず、条約交渉は行いつつも、造船に必要な物資や船大工などの人員をどんどん送り込んだのです。12月21日(西暦1855年2月7日)、日露和親条約が結ばれました。

条約第二条の「国境画定と北方領土」については議論が白熱しましたが、最終的には幕府の意向に沿った川路の主張にプチャーチンが譲歩します。結果、「千島列島は択捉(えとろふ)島以南を日本の領土とする。樺太はこれまでのしきたり通り、日露間に国境を設けない」に決まりました。この条約締結日にちなみ、今日、2月7日は「北方領土の日」になっているのです。

交渉における川路の、ロシアに誠意を示しつつ、毅然と一歩も退かぬ姿勢に、日本側の随員は感銘を受けたと記しています。調印式で、川路とプチャーチンは互いの健闘を称えあいました。プチャーチンは「日本の川路という官僚は、ヨーロッパでも珍しいほどのウィットと知性を備えた人物であった」と書き残しています。

こうして日露交渉に大きな足跡を残した川路ですが、その後、大老の井伊直弼(いいなおすけ)ににらまれたことで隠居、差控(さしひかえ)を命じられ、さらに数年後には病で半身不随の身となりました。

そして慶応4年(1868)3月14日、勝海舟と西郷隆盛の会見での前将軍徳川慶喜の恭順、江戸城無血開城を見届けると、その翌日、「遺言と申せば忠の一字なり」と遺言状に書き、不自由な体のため形だけ切腹をした後、拳銃で最期を遂げます。幕府への恩義に報いるためでした。

幕末の人物というと勝海舟や西郷隆盛などに脚光が当たりがちですが、ロシア人たちを魅了する人間性と、毅然とした態度で条約を結んだ幕臣がいたことを、私たちは知っておいてもよいでしょう。また、外交で最も大切なことを川路の奮闘が示しているようにも感じます。

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