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埋蔵金を見つけるセオリーとは

埋蔵金といえば赤城の徳川埋蔵金が有名だが、
その存在を信じている人は多くないかもしれない。
しかし、実際に掘り出された埋蔵金があるのも事実。
そして埋蔵金を探すには、実はセオリーがあった。

埋蔵金がまさか出るわけがない

「いやあ、この間、驚いたことがあってね」

親しいイラストレーターから、思わぬ話を聞かされました。
山とたき火が好きなそのイラストレーターは、山梨県の山中の土地を小屋ごと購入し、仕事がオフの時には、そこでのんびり過ごすのだそうです。

「近所に何軒か似たような小屋があるので、行った時に人がいれば挨拶するんだけど、そいつらが何をやっているのかよくわからない。ある時、挨拶して、ひょいと庭を見たら、地中レーダー探査に使う機械みたいなものが置いてある。『あれ、もしかして埋蔵金でも探してます?』と冗談で言ってみたら、そいつ笑わないんだ。マジだったんだよ!」

埋蔵金といえば、よくテレビ番組になる、群馬県赤城の徳川埋蔵金をご存じの方も多いでしょう。一説に360万両が埋められているといわれ、番組では重機を使って、何度も信じられないような巨大な穴を掘りましたが、いまだ見つかっていません。

視聴者も「まさか出るわけがない」と思いながら、ついつい観てしまう番組です。

では、埋蔵金は荒唐無稽な話かというと、あながちそうとも言い切れず、実際に見つかっている例がいくつもあります。

『〈増補改訂〉掘り出された江戸時代』の著者・故河越逸行氏も、都内の工事現場から瓶に入った古銭が出ているのを確認していますし、中央区新川では小判や金など、現在の価値で10億円分が見つかっています。もっとも、これらは偶然見つかったもので、探し当てたものではありません。

一方で、埋蔵金は隠す側が無作為に埋めるはずがなく、実は「埋蔵のセオリー」が存在すると、作家の故小林久三氏から聞きました。そのあたりについて、少し紹介してみます。

山下財宝はセオリーに合致する

埋蔵金伝説といえば、江戸時代以前のものというイメージがありますが、昭和に生まれた伝説もあります。太平洋戦争中、日本陸軍第十四方面軍司令官の山下奉文(ともゆき)大将がフィリピンに隠したといわれる「山下財宝」です。

山下財宝はルソン島北部のイサベラ、バギオなどを中心に、172ヵ所に埋められたとされる金銀で、その信憑性は低いと大半の日本人は考えています。ただ、山下財宝を発掘するテレビ番組を企画したプロデューサーが、現地で行方不明になったという噂も流れました。

これについて小林氏は、「財宝が埋蔵されている可能性は高い」と言います。というのも、埋蔵地候補とされている場所が人工的な岩盤で覆われていたり、試掘すると大量の水が出たりと、簡単には盗掘できないような場所であるからでした。

「実はこれこそ、日本に昔から伝わる財宝の埋蔵方法そのもの」と小林氏は指摘します。

「埋蔵にあたったのは陸軍中野学校出身者とされるので、彼らは古来伝わる方法を知っていたのでしょう。また、彼らの中には財宝を監視するために、終戦後も長期にわたって現地人に溶け込みながら、残った者がいたはずです。いわゆる『残置諜者(ざんちちょうじゃ)』です」

終戦後も命令解除が出るまで、ルバング島で諜報活動と戦闘を続けた小野田寛郎少尉も、あえて敵地に残った残置諜者であったといわれます。

こうした埋蔵のセオリーに照らした時、例の赤城の埋蔵金は果たしてどうなのでしょうか。

武士団と大量の油樽、銅板の文字、黄金像

まず徳川幕府の御納戸(おなんど)金360万両(現在の価値で約20兆円とも)が眠るといわれる、赤城山麓の徳川埋蔵金伝説の概要を紹介します。

幕末の慶応2年(1866)1月、前橋藩士と称する武士の一団が、「君命による開墾である」と、赤城山麓の津久田原の奥に入り、10ヵ月間滞在しました。彼らは3棟の仮小屋をつくって寝起きし、村人たちに炊き出しや買い物を頼んだといいます。

またこれより以前、渋川を流れる利根川のほとりに、油樽をいくつも積んだ8艘の小舟が着き、一つの油樽を4人ずつの人夫が棒で担いで、計22もの樽を運びながら赤城方面に向かうのが、地元の人々に目撃されていました。

この二つの出来事から、運ばれた油樽の中身は幕府の納戸金で、津久田原に滞在した武士団は、それを密かに埋蔵することが目的ではなかったかと推理する人物が現われます。

その人物は、幕府の元勘定吟味役中島蔵人の養子・水野智義氏でした。養父の蔵人は上野の彰義隊に参加して新政府軍と戦い、維新後は市中に潜伏していましたが、死の間際に智義氏に、納戸金を赤城山麓に埋めたと告白したのです。

養父の遺言と、慶応年間の二つの出来事から、智義氏は津久田原に埋蔵金が眠ると確信し、およそ260町歩の土地を購入して、発掘調査に乗り出しました。発掘は子孫に引き継がれ、今なお発掘を継続しているといいます。

やがて埋蔵を裏付けるかのように、津久田原近くの双永寺の縁の下から、3枚の銅板が発見されます。1枚は地図、1枚は十二支、残りの1枚には次の文字が記されていました。

甲、七四、乙、六五、丙、五六、丁、四七、戊、三八、己、二九、庚、一八
右一二ト記シタルハ丈度足斟、両用トス
戊己ト記シタルハ丁丑ト続キタルノ記ナリ
此ノ証ヲ存スルトキハ七臣ニ達スルコト目前ナリ、七臣ニ達スレバ、分証揃ッテ一将顕ワル、但シ一八ハ萬物ノ始メ一将ヲ覚ハルトキハ七臣ニ達シテ天下平ナリ

文字を読み解くと、甲から始まって庚に終わる7ヵ所の方向指示と距離が示されています。その指示に従って距離を計算すれば、一将に到達して天下泰平、と解釈できるといいます。

その後、津久田原の地下2mから徳川家康の黄金像と、銅製の皿が発見されました。銅板が記す一将とは、この黄金像を指すもので、埋蔵金がある何よりの証拠とされているのですが、埋蔵金はいまだに見つかっていません。

埋蔵金の3つのセオリー

そもそも幕府の御納戸金とは家康の遺産で、4代将軍家綱が分銅金にして永久保存することとし、有事の際の軍用金以外の使用を禁じたといわれるものです。幕末の文久年間(1861~63)まで江戸城にあったことがわかっています。

その後、幕末の動乱が激化する中、幕府が万一に備えて御納戸金を赤城山麓に埋めたとしても、あり得ない話ではないのかもしれません。

もっともその中心人物とされる勘定奉行を務めた小栗忠順(おぐりただまさ)は、横須賀製鉄所(のち造船所)建設に巨額の資金を投じており、幕府に埋蔵できる余剰金はなかったという説もあります。

小林氏は、幕府が御納戸金を赤城山麓に隠したことは、まず事実であろうと考えました。ただし武士団の存在や大量の油樽の輸送は、きわめて作為的であると指摘します。

人目につくように油樽を運び、また武士団が10ヵ月も津久田原に滞在して村人たちと交流する中で、極秘裏に埋蔵作業を行うとは極めて考えにくく、秘密保持のための犠牲者も出ていないからです。

従って油樽の存在や武士団は、赤城山麓の村人たちの目を津久田原に釘づけにしておくための一種のカモフラージュで、本当の埋蔵場所は別の場所であり、しかもそれは新政府軍と戦う旧幕府軍の軍資金として、すでに運び去られたのではないか、と小林氏は推理します。

埋蔵金には、大きく3つのセオリーがあると小林氏は言います。

第1に謎文、ないし絵地図の存在。その作成には九星学や八門遁甲が用いられる。
第2に埋蔵場所は極めて発掘しにくい場所。山下財宝の候補地のように岩盤や湧水のある場所、あるいは神社仏閣など手を触れるのが憚られ、しかも状態が変わらない場所。
第3に盗掘を監視する埋宝守りの存在。埋宝守りには兵法学者が任じられることが多く、山下財宝の残置諜者がこれにあたる。

埋蔵金探しに一生を捧げた水野智義氏は、実は赤城山中で児玉惣兵衛という男に斬りつけられたことがありました。後に児玉と親しくなった智義氏は、児玉が本名・菅原広助という幕府の兵法学者であったことを知ります。

菅原広助は明治24年(1891)に息を引き取る際、智義氏に一巻の巻物を遺しました。それには「鳳凰(ほうおう)が南から飛び来たって鐘の上でお産をし、二日二晩たって再び北を目指して飛び立った」という内容が記されていました。これは何を意味しているのか。

小林氏は「鳳凰は縁起の良い鳥。埋蔵金は埋める時も掘り出す時も吉日が選ばれる。飛び来たった南は江戸、鐘の上でのお産とは寺の中での埋蔵作業、北へ向けて飛び立つとは、旧幕府軍の軍資金として再び掘り出され、日光、会津方面へと運ばれた」と読み解きます。

臨終間際の菅原広助は、親しく接した智義氏に、もうここには埋蔵金はないことを埋宝守りとして口で言わず、巻物で示したのかもしれません。また、鳳凰は旧幕府軍を率いた大鳥圭介の暗喩ではなかったかとも私は思います。

皆さんはどう考えるでしょうか。なお、埋蔵金伝説は日本だけで350ヵ所以上あるといいます。

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