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影武者は本当にいたのか

黒澤明監督に『影武者』という映画がある。
戦乱の世に、本人そっくりの人物を仕立てて
敵や味方をあざむいた影武者は、実在したのだろうか。

武田信玄の影武者は弟だった

戦国時代、影武者を使ったことで有名な武将の一人が武田信玄です。

黒澤明監督の映画『影武者』(主演:仲代達矢)では、武田信玄の急死後、風貌が似ていることから盗賊あがりの男が抜擢され、信玄は健在であると、敵はもちろん武田家中をもあざむく物語になっていました。

映画では、盗賊あがりを起用したのが信玄の弟・逍遥軒信廉(しょうようけんのぶかど)でしたが、実はこの信廉こそ、実際に信玄の影武者を務めたといわれます。

『甲越信戦録』という江戸時代の軍記物は、黒糸の鎧に諏訪法性(すわほっしょう)の兜、緋色の衣の袖を肩にかけ、軍配を手に床几に腰をかけた信玄から半町(約50m)隔てた場所に、信玄と全く同じいでたちの武者がいたと記します。

こうしておけば仮に敵が本陣に突入してきても、即座には、どちらが本物の信玄かわかりません。

影武者は常に信玄に影のごとくつき従っていたというのですが、その正体が、逍遥軒信廉でした。実弟だけあって、顔が信玄によく似ていたといわれます。

信玄は生涯で合戦に臨むこと実に130回以上に及んだといい、常に陣頭で指揮を執りました。大将が陣頭で采配を振るえば味方の士気は鼓舞される反面、敵の標的になるリスクも高まります。リスクを少しでも回避するために、影武者は必要だったのでしょう。

また、信玄が影武者の必要性を痛感したのは、鉄砲の登場であったといいます。弘治元年(1555)、信玄はポルトガル銃300挺を購入し、試し撃ちをさせてその威力に驚くと、すぐに甲冑の改良を命じました。

そして防弾を意識した軽い鋼鉄製に統一し、農民兵も弾除けに効果がある竹具足を着用させます。

こうした備えをした上で信玄は、敵が本陣を狙撃することもあると考え、影武者を自分の周りに巧妙に配置し、カモフラージュしました。つまり鉄砲が戦場で使われるようになったことで、影武者の重要性もさらに高まったというわけです。

なお信玄の息子・勝頼は鉄砲の威力を侮ったために、長篠の合戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗を喫したといわれ、映画『影武者』のラストシーンもまさにその場面でしたが、前述のように武田軍は決して鉄砲を軽視していたわけではありません。

また、最近の研究で織田・徳川連合軍が、鉄砲3,000挺を3段撃ちしたことは疑問視されています。合戦が8時間もの長時間に及んでいることを見ても、武田軍が甚大な被害を出したことは事実ですが、鉄砲で簡単に敗れたというわけではなかったようです。

徳川家康の影武者とは

天下人となった徳川家康にも、影武者の伝承があります。

以前、話題を呼んだ作家・隆慶一郎の小説に『影武者 徳川家康』がありました。

作品では関ヶ原合戦の最中、石田三成の重臣・島左近に仕える忍びが家康を暗殺しますが、影武者が家康を演じて勝利をもたらし、それ以後も家康として、非情な息子・秀忠と戦うストーリーです。

小説は人気を呼び、コミック化されたり、テレビの連続ドラマにもなりました。

また家康には、別の影武者説もあります。明治時代に地方の役人だった村岡素一郎が著した『史疑 徳川家康』という書籍に載るもので、家康は(当時は松平元康)桶狭間合戦を機に今川家から独立した後、家臣に暗殺されたというのです。

元康の不慮の死を隠ぺいするために、松平家は元々修験者で、世良田二郎三郎元信と名乗って仕えていた男を、元康の替え玉にしました(後に家康に改名)。

そして替え玉であったために家康は、織田信長による正室・築山殿と長男・信康殺害命令を承諾することができた。また信康と親しかった重臣・石川数正はこれを受けて、徳川家を出奔した、という説明がなされています。

世良田二郎三郎の名は、隆慶一郎の『影武者 徳川家康』でもモチーフとして用いられています。村岡素一郎の『史疑 徳川家康』は当然ながら矛盾点が多く、支持する研究者は皆無なのですが、家康になぜこうした説が生まれたのか、興味深いところではあります。

家康は大坂夏の陣で死んでいた?

さらにもう一つ、家康には不思議な伝説があります。彼の総仕上げの戦いである大坂夏の陣で、討死したというものです。

慶長20年(1615)5月7日の大坂夏の陣における天王寺の戦いで、家康は豊臣方の真田信繁の猛攻を受けて本陣を蹂躙されますが、最終的には勝利し、炎上する大坂城とともに豊臣家は滅びました。

ところが地元には、次のような話が伝わっています。すなわち家康は真田信繁の猛攻を受けた際、負傷し、堺に向けて敗走したところ、大坂方の後藤又兵衛に見つかり、駕籠の外から槍で突かれて討ち取られた。家康の遺骸は堺の南宗寺に葬られ、その事実は厳重に隠匿された、というものでした。

史実では後藤又兵衛は前日の誉田の戦いで討死しており、それだけでも荒唐無稽な俗説と切って捨てたくなりますが、無視できない要素もあります。

それは、討死した家康の影武者を務めた男の名が伝わっているのです。小笠原秀政。信州松本8万石の大名です。

秀政は家康の亡き長男・信康の娘を正室とし、家康の江戸入府に伴って、はじめ下総古河に3万石を領しました。10年後、信州飯田5万石に加増、さらに松本8万石を領します。家康に目をかけられていたことが窺えるでしょう。

夏の陣では天王寺の戦いで奮戦、息子が討死し、自身も重傷を負って、その夜のうちに死亡したとされています。ところが実際には重傷を負って死亡したのは家康で、秀政はその夜から約1年間、徳川幕府が盤石になるまで、家康の影武者になったというのです。

夏の陣当時、家康は74歳であるのに対し、秀政は46歳。影武者を務めるには年齢差がありますが、当の秀政の風貌を記すものは一切残っておらず、10年を超える古河時代の事績も不思議なほどきれいに抹消されているといいます。

また秀政の長男は戦死しましたが、次男忠真(ただざね)は明石10万石から豊前小倉15万石へと、本人に戦功がないにもかかわらず大加増を受けました。これはなぜなのか。

さらに堺の南宗寺には、水戸徳川家・家老の子孫である三木啓次郎が昭和42年(1967)に建立した徳川家康の碑があり、実はその碑と、一基の墓が伝説を裏付けています。

すなわち、「南宗寺には昔から山岡鉄舟の筆による質素な墓が安置されているが、徳川家康墓とあり、当時より一部には知られていたものの大方は秘密にされていた。ここが家康の終焉の地であることは有力な史家が保証し、それを物語る文献も多数残る。同寺の記録に元和9年7月10日に2代将軍秀忠が、また翌月8月18日には3代将軍の家光が南宗寺を訪れ、座運亭の楼上からかつての戦場を望み、往時を偲んでいる…」とあるのです。

また南宗寺の正門から北に通じる道を「権現道」と呼び、家康の遺体は元和3年(1617)に久能山から日光に移すという名目で、実は南宗寺の南山堂(空襲で焼失)から移されたという伝承まで存在しています。

これらの伝承は何を意味しているのか、そして家康の影武者は存在したのか、色々と想像してみるのも楽しいかもしれません。

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