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会津鶴ヶ城の基礎をつくった加藤父子

武士道の心を今に伝える城下町・福島県会津若松。
戊辰戦争時の白虎隊の悲劇とともに、会津の
シンボルといえば名城・鶴ヶ城(会津若松城)である。
その基礎をつくったのは、賤ヶ岳七本槍の一人だった。

目まぐるしく替わった城主

武士道の心を今に伝える城下町・福島県会津若松
戊辰戦争の折の、会津藩の壮絶な戦いぶりと白虎隊の悲劇、そこで発揮された会津武士道の見事さは、今も多くの日本人の胸を打ってやみません。私も何度となく訪れています。

そんな会津のシンボルといえば、美しい白亜の天守で知られる鶴ヶ城(会津若松城)です。

この名城は、戊辰戦争の籠城戦で、火力に勝る新政府軍の攻撃を寄せ付けず、開城まで一兵の敵も城内に入れぬ難攻不落ぶりを示しました。

鶴ヶ城の歴史は約600年前まで遡り、城主もめまぐるしく替わっています。

鶴ヶ城の始まりは、中世の会津の領主・蘆名直盛(あしななおもり)が至徳元年(1384)に築いた黒川城でした。やがてその子孫の蘆名義広が米沢の伊達政宗に敗れ、天正17年(1589)、独眼竜政宗が黒川城主となります。

ところがその翌年、豊臣秀吉の命令で政宗は黒川城他を取り上げられ、代わりに蒲生氏郷(がもううじさと)が会津42万石の領主として、黒川城に入りました。

氏郷は黒川の地名を若松に改め、以後黒川城は若松城と呼ばれるようになります。

また氏郷は城郭を改修し、「七重ノ殿守(天守)」をあげたとされます(『氏郷記』)。その後も統治の功績を認められて氏郷は加増され、92万石の大大名となりますが、40歳の若さで没。

その遺児が幼少であったため、秀吉は越後春日山城主の上杉景勝を若松城に移し、120万石を与えました。

秀吉の死後、関ヶ原合戦にあたって西軍に与した景勝は、徳川家康によって米沢30万石に移封、若松城には蒲生氏郷の遺児秀行が返り咲きます。が、その息子忠郷が病で急死したため、会津は収公されました。

代わって会津40万石の領主となったのが加藤嘉明(かとうよしあき)です。城造りの名人として知られる嘉明は、地震によって傾いていた天守の修築に着手し、息子の明成(あきなり)が新たな天守を完成させ、城郭に大改修を施しました。

現在見られる鶴ヶ城の雄大な規模は、加藤父子の時代に築かれたものです。

しかし明成は、家老堀主水(ほりもんど)一族の出奔事件における不手際で将軍家光に睨まれ、ほどなく40万石を没収。家光は弟の保科正之(ほしなまさゆき)を会津23万石の領主とし、ここに幕末に至る会津松平家が始まるのです。

加藤嘉明・明成父子の人物像

さて、現在の鶴ヶ城の基礎を築いた加藤嘉明・明成父子に注目してみましょう。

嘉明は三河牢人の子ですが、羽柴秀吉に見出され、秀吉子飼いとして加藤清正、福島正則らとともに成長、賤ヶ岳の合戦では七本槍の一人に数えられる武功を立てました。

天正14年(1586)、淡路島の志智(しち)城主となり、淡路水軍を統率して秀吉の九州攻め、小田原攻め、朝鮮出兵で活躍。その功績から伊予松前(いよまさき)城主となり、伊予水軍を託されます。

関ヶ原の合戦では東軍に与し、戦功により家康から伊予半国20万石を与えられました。

そこで嘉明は新たな城を松山平野の勝山に築きます。それが今も名城として知られる伊予松山城です。

嘉明の人柄は「剛毅にして謀慮あり。良士を招き、徒卒を擁し、忠信にして恭謙で、武備を忘れず」(『名将言行録』)と評され、まさに戦国を生き抜いた名将の一人といっていいでしょう。

一方、その息子の明成は、父親に似ぬ冷血漢で、領民に重税を課して疲弊させたといわれます。しかし儒学者の横田俊益(よこたとします)は明成を、「好学厳正な人格者」と評しました。

確かに彼の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)とされる藩政は、街道整備、幕府から命ぜられた江戸城普請、鶴ヶ城の改修の必要などで逼迫する藩財政上やむを得ぬ部分もありました。

家老堀主水一族の処刑などで暴君のイメージの強い明成ですが、彼が置かれていた環境を客観的にとらえた上で、改めて評価することも必要なのかもしれません。

会津における加藤父子の功績

会津における加藤氏時代は、16年と短いものでした。しかし、加藤父子の時代に現在の鶴ヶ城の基礎が築かれており、また領内整備においても、特筆すべき点は少なくありません。

嘉明は、会津大地震によって傾いていた鶴ヶ城天守の修築に着手する一方、白河街道の整備を行ないます。

この街道は越後、会津、江戸を結ぶ幹線でしたが不備も多く、特に領内の背炙(せあぶり)峠は難所として知られていました。

そこで嘉明は、滝沢峠に迂回する新道を開通させます。この道は正式な参勤交代ルートとなり、流通が盛んになって、沿道の宿駅も大いに賑わうことになりました。

また息子の明成は滝沢峠に石畳を敷いて往来を容易にする一方、鶴ヶ城の大改修に取り組みます。

まず新たな五層の天守をあげるとともに、城の建つ丘の麓まで取り込んで、北出丸と椿坂、西出丸と梅坂を増築、さらに城の大手(正面)を廊下橋のある東から北出丸へと移しました。

特に新たに大手に定められた北出丸の守りは極めて堅固で、追手(大手)門から侵入してきた敵を三方向から攻撃できる構造になっていたため、北出丸は別名「皆殺し丸」と呼ばれたといいます。

実際、会津戦争では北出丸、西出丸で砲撃戦が演じられ、新政府軍はついにこれを突破することができませんでした。つまり明成の修築の成果が証明されたのです。

また、大手である北出丸の北側を中心に町場が形成されていきます。つまり会津若松城下繁栄の起点も、明成時代に定められたともいえるのです。

鶴ヶ城といえば白虎隊や戊辰戦争のイメージが強いですが、しかしこの城には加藤父子をはじめ、数々の名将が関わってきた歴史があります。そして、その智恵はさまざまなかたちで今も城にしっかりと刻まれています。そんなことに思いを馳せながら改めて鶴ヶ城を訪ねてみると、また新たに気づくことがあるかもしれません。

ちなみに会津は日本酒も食べ物もうまく、囲炉裏で焼いた鮎の美味しさは、私がこれまでに食べた鮎の中で一番でした。

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