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大津波と「稲むらの火」

今日で東日本大震災から8年。
津波に対する早期警報と備え、
さらに復興において、かつて教科書にも
載った「稲むらの火」のモデル濱口梧陵から、
今も学ぶべき点は多いのかもしれない。

8年前の3月11日

東京大空襲のあった3月10日。その翌日が、東日本大震災のあった3月11日。多くの人命が失われた出来事の日付が隣り合っていることに、少し不思議を感じます。

8年前の3月11日、私は取材で京都に行っていました。午後早い時間に人と会っていた時、微かな地震があったことを覚えています。

その後、16時頃に京都大学で取材する折、大学の先生から「取材なんかしていていいのですか。関東は大変なことになっていますよ」と言われて、はじめて大地震があったことを知りました。

会社に連絡を取ろうにも、回線がパンクして電話もメールも通じません(その後、メールはタイムラグがあるものの、とぎれとぎれにやりとりができました)。終電が早まったため、21時前に京都発の最終の新幹線に飛び乗り、東京に着いたのは日付が変わった頃。車窓から見える高速道路では大渋滞が起きていました。

新幹線でたまたま隣り合わせた足の不自由な老婦人に付き添って、その日は終夜運転していた地下鉄で大手町駅まで行き(駅のエレベータは稼働しておらず、駅員も大わらわでしたので、階段の昇降などに付き添いが必要でした)、老婦人と同じ方向に帰る女性に付き添いをお願いして、自分は部下が残る会社に戻り、夜を明かしました。

社内でも本棚の大半が倒れていて、夕食代わりの乾パンを食べながら散乱した物の片付けをし、ニュースで流れる東北の津波の惨状に涙したことを覚えています。

「世界津波の日」と「稲むらの火」

ところで11月5日が何の日かご存じでしょうか。2015年12月、国連総会において、日本をはじめとする142ヵ国が共同提案国となり、11月5日を「世界津波の日」に制定することが決まりました。

もともと日本では、2011年3月の東日本大震災で甚大な津波被害が発生したことを受け、同年6月に毎年11月5日を「津波防災の日」と定めていました。そしてさらに世界に向けて津波防災を発信すべく、同日を「世界津波の日」とする決議案を国連総会に提案していたのです。

では、そもそもなぜ11月5日なのか。実は「世界津波の日」の「早期警報」「災害への備え」というメッセージの原点ともいうべき、ある人物に由来します。

それは安政元年(1854)11月5日に紀州(和歌山県)を襲った安政南海地震の津波の際、広村(現、有田郡広川町)の村人たちを避難させ、命を救った濱口梧陵(はまぐちごりょう、儀兵衛〈ぎへえ〉)です。

彼をモデルにして、その出来事を子供向けに描いた読み物に、「稲むらの火」があります。タイトルをご存じの方もいらっしゃるかもしれません。

『「これは、ただ事ではない」
とつぶやきながら、五兵衛は家から出て来た』

という書き出しの「稲むらの火」は、昭和12年(1937)から21年(1946)にかけて、尋常小学校第五学年用国語読本に掲載されました。大きな地震の揺れから津波が来ることを察知した五兵衛老人が、高台にある自分の田の稲束に惜しげもなく火をつけ、驚く村人を高台に集めて、彼らを津波の襲来から救ったという話です。

濱口梧陵が五兵衛老人となっているように、「稲むらの火」は物語として史実と異なる部分もありますが、津波の襲来を周囲の人々に知らせ、避難誘導することで村人たちを救った点に変わりはありません。以下、濱口梧陵という人物と、津波から村人たちを救った実際の顛末を紹介します。

海防への関心と良識の持ち主

梧陵は文政3年(1820)、紀伊国広村の濱口家の分家に生まれました。本家の濱口家は元禄年間に銚子で醤油醸造業を始め(現在のヤマサ醤油)、江戸に出店、江戸随一の醸造家として名を馳せていました。梧陵は天保2年(1831)、本家に養子に入り、後継者として家業にいそしみます。

当時は異国船が日本近海に出没し、危機感から尊王攘夷が叫ばれ始めていました。20歳で結婚した梧陵は家業を修行するかたわら、海防問題へ関心を抱き、兵学と砲術で高名な佐久間象山(さくましょうざん)に入門します。また3歳年下の幕臣・勝麟太郎(海舟)とも交友を持ちました。

嘉永4年(1851)、久しぶりに広村に帰った梧陵は、村の男たちに海防の必要を説くとともに、外国船来航などの不測の事態に備えて私塾を開き、青年たちに武術・学問を指導します。こうした地元の人々との繋がり、若者たちの指導者的立場にあったことで、後年の津波襲来の際、梧陵の指示に村人たちは迷わず従ったのでしょう。

2年後の嘉永6年(1853)、34歳の梧陵は家督を相続し、7代目当主を継承。代々の当主が名乗った「儀兵衛」を襲名しました。同年、ペリー率いるアメリカ艦隊が浦賀に来航し、開国を求めます。幕末の動乱の始まりですが、梧陵は「日米両国が交易を行なうことは、双方に利益をもたらすのではないか」と考えています。

当時多かった観念的な攘夷論者ではなく、現実的かつ良識的な知識人であったといえるでしょう。そのかたわら、梧陵は広村で青年たちの育成に力を入れていきます。地震が起きたのは、そんな矢先のことでした。

せめて目印になれば

「五日七ツ時(午後四時)頃に至り大振動あり、其の激烈なる事前日の比に非(あら)ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟(じんえん)空を蓋(おお)ふ」(濱口梧陵手記「安政元年海嘯(かいしょう)の実況」)

安政元年(1854)11月5日の午後4時頃、強い地震が紀州を襲います。実は前日の午前10時頃にも強い地震があり(東海道沖地震)、津波の襲来を危惧した梧陵は、広村の村人たちをいち早く高台に避難させていました。幸い惨事に至らず、翌5日、一夜を明かした村人たちが家路についてほどなく、再び地震が起きたのです。

さらに地震発生から十数分後には、巨大な津波が村を襲いました。津波は7波に及び、第2波は高さ8mに達したといいます。村は瞬時に呑み込まれ、梧陵も潮流にもまれる中、幸い高台にたどり着きました。

村人を案じた梧陵は、その多くが避難していた八幡神社に駈けつけ、混乱して悲鳴をあげる人々を懸命になだめて廻ります。

やがて日が暮れたため、梧陵は10人の男たちとともに松明を持って、村の被害状況を調べに行きますが、流出家屋や物が道を塞ぎ、歩くこともままなりません。やむを得ず引き返しますが、「逃げ遅れて、まだ波間を漂う者がいるかもしれない。せめて目印になれば」と、道端のいくつもの稲むらに火を点けて、避難場所へと誘導するようにしたのです。

結局、この安政の大津波で1,300余人の村人のうち36人が命を落とし、物語の「稲むらの火」のように全員が助かったわけではありません。しかし梧陵の稲むらの火を目印にして、9人の命が助かったのも事実でした。

再度襲来した昭和の津波を防ぐ

梧陵の功績は、村人たちの避難誘導に留まりません。避難民のために寺の貯蔵米や庄屋の年貢米を借り受けて握り飯を配り、精神的に疲弊している者を慰め、藩の役人と救済策を話し合い苦情や相談を聞くための仮役場を設けます。さらに玄米200俵の寄付をはじめ、漁船、農具の購入、家屋修復など村人救済のために巨額の私費を投じました。

なかでも特筆すべきは、防波堤の建設です。「こんな津波の来るところには暮らせない」という村人の不安を解消するとともに、被災者が施しを受けるだけでなく、防波堤工事に参加することで、自立心を持って安定した収入を獲得できるように、という梧陵の配慮でした。

工事は被災から3ヵ月後に早くも始まり、農民たちが参加できる農閑期を中心に進められます。その結果、安政5年(1858)には全長650m、高さ5m、根幅17mの一大防波堤が完成、さらに堤防強化のために外側二列に松、土手に櫨(はぜ)の木が植樹されました。それらの費用はすべて、梧陵の私費で賄われたことにも驚かされます。この堤防は広村堤防として現存し、昭和21年(1946)に起きた昭和南海地震の際、襲来した津波を見事に防ぎました

「其の事業は地方的なりしも、其の志は天下にありき。(中略)殊に人類相倚(よ)り相助け、相謀(はか)り相安んじと云へる、其の思想の人道的、世界的なりしを見る」(木国同友会)

梧陵を評した言葉です。彼は常に目先の損得ではなく、何が世の中のためになるのかを見据え、その実現に向けて力を尽くし、多くの人を励まし、希望の光をもたらしました。

東日本大震災からの復興が決して容易な道のりでないことは、8年を経たいま誰もが実感していることです。しかし最も大切なことはほとんどすべて、濱口梧陵がすでに体現していたのではないだろうかと、私は感じます。

被災地の一日も早い復興と、犠牲になられた方のご冥福をお祈り申し上げます。

なお梧陵は江戸の蘭方医を支援し、銚子でコレラ防疫にも大きく貢献しています。テレビドラマの『JIN-仁』にも登場しましたので(石丸謙二郎さんが演じていました)、記憶されている方もいらっしゃるかもしれません。

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