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土曜ソリトンSide-B : あれから20年④

その4:相変わらずさ

 1995年3月。阪神・淡路大震災から2ヶ月後、日本を揺るがす大事件がまた起きた。

3月20日 - オウム真理教によって地下鉄サリン事件発生。13人が死亡、5,510人が重軽傷。

 僕が契約していた東芝EMIは当時港区・溜池にあって、通勤中に被害にあった社員の方もいた。オウム本部のビルもよく通る道沿いにあったので、報道陣が何ヶ月もビルの周りを取り囲んでいたのを今でも思い出す。事件がごく身近なところで起きてしまったことに驚きを禁じ得なかった。テレビも新聞も、オウム一色に塗られた。

 あの頃も今も、大きな出来事の後には、テレビは取り憑かれたようにそのことを追いかけていく。20歳くらいから精神世界や宗教に関心を持って学んできた自分には、映像の力に無自覚な報道や、恣意的に編集されたワイドショーからばらまかれる「毒」がきつくて、テレビを観ることができなくなってしまった(ちなみに、今まで特定の信仰を持ったことはない)。その数年後に発表した「Bye Bye Television」という曲は、実はその時感じた気持ちが下敷きになっている。

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 時間をもう少し巻き戻して、1994年。当時やっていたラジオの企画で、街中で弾き語りのストリートライブを収録していたことがある。まったく予告もせず、突然、街の中で歌うのだ。

 弾き語りへのあこがれはずっとあって、デビューの時から折にふれて続けてはきたけれど、3〜4曲以上続けられる技量は当時はまだなかった。宅録をベースにアルバムを6枚作り、手の内を出し尽くした気がして、それまでのやり方を根本から変えるためにそんなことを思い立ったのだ。

 今みたいにネットで告知できたらもうすこし盛り上がったんだろう。駅前や公園、人の多そうな場所を選んだのに反応は総じて薄かった。上野公園では掃除のおばちゃんに「邪魔だよ」と追い払われた。代々木駅前ではほとんどまったく誰にも相手にされなかった(みんな通勤通学に忙しいんだから当たり前だ)。部屋で想像の世界だけで作った曲は、昼間の野外には合わない。そして自分の歌の限界も思い知った。

 スポーツマンと犬の散歩をする人々が行き交う駒沢公園も、なかなか足を止めて聴いてくれる人はいなかった。すると近くでパーカッションを練習していた外国人がこちらにやってきて「何か一緒にやろうぜ」と言う。マーロ・モンタナと名乗る彼は、後で調べたらリトル・クリーチャーズのアルバムにも参加していた。

 彼に導かれてなんとなくコードを弾き始めたらリフになった。そんなふうにして生まれたのが、この「相変わらずさ」という曲。

 実在の友達と実際に起きたエピソードだけで歌詞を書いたこの曲、書き上げたのは1994年6月10日。収録されたアルバム「Sorrow and Smile」が発売されたのは、震災とオウム事件を経た翌・1995年3月29日。サリン事件からわずか9日後のことだった。

時は流れゆく 平凡な毎日もいつか 
お金では買えない 小さな宝石の日々になる

 そんなつもりで、この歌詞を書いたわけじゃなかったんだ。

 当たり前だと思っていた日々は瞬間に壊れて二度と戻らなくなってしまうことを、そして、世の中が変わることで歌の意味も変わるということを、29歳になったばかりの僕は初めて知った。

 1995年4月、さあ、いよいよ「土曜ソリトンSide-B」の放送が始まる。

(続く)

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