大村憲司さんとエレキギターと

池上本門寺のイベントに向けてギターを練習しようと思って最近弾いてなかったスタインバーガーのケースを開けたら、大村憲司さんの2005年の旧譜再発時のフライヤーが出てきた。裏面に「1998年 49歳で逝去」とある。今の自分の年齢と同じだ。不意に憲司さんに「練習したらうまくなるよ」と背中を押された気がした。



2005年、僕はGANGA ZUMBAの母体となった宮沢和史君のソロプロジェクトのギタリストとして、ヨーロッパや中南米を旅していた。様々なジャンルをまたいで凝ったアレンジで作られた宮沢君の曲は、僕一人のギターでライブで再現するにはかなりハードルが高いことも多く、時には劣悪な旅先の環境にもまれながら、踏ん張って旅を続けていた。

メキシコの空港は(実際はそんなことはなかったけど)たまにロストバッゲージがあって二度と出てこないという噂も聞いて、なるだけ手荷物で旅ができるようにと、スタインバーガーとサイレントギターと小さなマルチエフェクターだけで中南米ツアーを乗り切ることにした。ステージではいつも足下に憲司さんのポートレイトを置いて、あがりそうなときは眺めて気持ちを静めていた。

1987年、僕の生まれて初めてのプロとしての仕事はThe Beatniksのサポートだった。憲司さんとツインギター。憲司さんはエレキでリードギタリスト。僕はエレキとアコギでサイドギター&コーラス。たいしたライブ経験もない大学生の僕にとって、それがどれほどのプレッシャーだったか。あの頃はエイドリアン・ブリューがフェイバリットで、エフェクトは多ければ多いほどいいと思っていたし、弾けないソロをアームでごまかしていた。

憲司さんのセットはコンプ・オーヴァードライブ・ディレイ程度で超シンプル、そして音は、個性的で、繊細で、時に叫ぶように激しく、とにかく圧倒的だった。(写真はそのときの楽屋。左前列からドラムの矢部浩志君、僕、サックス矢口博康さん、パーカッションとコーラスの鈴木祥子さん、ベース渡辺等さん、後列が幸宏さん、憲司さん、キーボードは小林武史さん。慶一さんは、多分トイレに行ってた気がするw )

その頃の僕はプロのギタリストになることを夢見ていた。でも、憲司さんの音を真横で聴いてその凄みに打ちのめされてしまって、完全に自信をなくした。デモテープを聞いた幸宏さんから「高野君、声も悪くないし歌ってみれば?」という助言を受けていたこともあって、ギタリストになる夢を一旦封印して、アコギでちゃんと弾き語りができるSSWを目標に定めた。そしてソロシンガーとしてデビューすることになった。憲司さんにギタープレイを褒められたことはなかったけど、90年代後半に憲司さんのライブを観に行った後に「君はどんどん曲をつくるといい、歌詞だけでもいいよ」と言ってもらったことはよく覚えてる。

2014年、ブラジルにギターだけ持って旅に出た。デビューして初めて、クリック(メトロノーム)も使わず歌とギターを同時に録音するスタイルで新しいアルバムを作った。1987年に思い描いた「アコギでちゃんと弾き語りができるSSW」に、やっとなれたんだと思う。

アコギは自由に弾けるようになったけど、いまでもエレキには時々自信がない。アコギとエレキは、ピアノとオルガンくらい違う楽器に感じる。憲司さんはエレキしか弾かないギタリストだった。本番前もリハ中も、いつも六角レンチで弦高調整をしていた姿を覚えてる。何でもできることと、極めることは違うのだ。

エレキの、特にアドリブのソロになると、たまにしどろもどろになって全然弾けなくなってしまうことがある。感覚だけでやってきたので、正統派のプレイができない弱さがある。久しぶりにちゃんと練習してたら、どうして弾けないのかその訳だけは少しずつ分かってきて、何年かぶりに練習が楽しくなってきた。50代が終わる頃までにはきっといい感じになるだろう。

自分の音を探すんだ。長生きするぞ。

追記:9月に出るRallyeレーベルアーティストとのコラボアルバム宮内優里君と一緒に「春がいっぱい」をカヴァーした。先日「Dedicated to Kenji Omura」とクレジットして入稿したばかり。きっと、憲司さんに届いたんだと思う。そして、上のエピソードにあったサイレントギターは今、宮内優里君の元にある。事実は小説よりも奇跡的。


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