1990_ベステンPCD

「ベステン ダンク」と叫びながら(1990②)

*19/9/12 後半を大幅加筆修正しました。
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1990/8/24。トッド・ラングレンとのレコーディングが日本で始まった。それまではいつもレコーディングよりも前にデモを仕上げて曲も選んでいたのだが、この時はかなり追い込まれていた。何曲か悪戦苦闘して作ってみたものの、結局「これだ!」という曲は録音の前日になっても書けなかった。中では最もシングル向きだと判断して、この曲のデモをトッドに聞いてもらった。


おそらく皆さんの耳には最終型の印象が残っているのでイメージを補完して聞いてしまうと思うけれど、このデモを最初に聞いていたら曲自体のインパクトはもっとずっと弱かったかもしれない。この段階ではそれまでの作品と比べるとサウンド的な工夫のない、無難でありきたりなギターポップだった。スタジオでデモを聴き終えた後のトッドの表情は、やはり厳しかった。

トッドはしばし黙考した後、何も告げず、おもむろにキーボードに向かってシンセを弾き始めた。曲の全体を印象づけるリフレインはスタジオでトッドが考えてくれた。トッドの十八番とも言うべき独特なテンションコードの連続が緊張感を産み、シンコペーションが力強さと前向きさを強調する。サウンドの変化が、曲にマジックを呼んだ。

3rdアルバム「CUE」の録音の様子にも書いたとおり、それまでもトッドとのレコーディング中に度々アイデアに行き詰まり、何度か助けを求めたことがあった。しかし彼はそれまで一切楽器を触ろうともせず、背中を押す程度の助言しかくれなかった。自分にとっては試練だったが、今思えばそれはプロデューサーとしてのトッドの「愛」だったと思う。

翌1991年にもトッドのスタジオで4thアルバムのレコーディングセッションに臨んだが、結局彼が楽器を弾いたのはこの「ベステンダンク」のレコーディングセッションの時だけだった。きっと僕の創作の泉が枯れかけているのを察知しての救急措置だったんだろうと思う。

そう、あの頃の自分は、追い込まれていた。

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