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Between TOKYO & KYOTO / 中村佳穂は「京都で一番ヤバイ奴」 (2015)

*このエッセイはデビュー30周年の2018年のエピソードまで続く連載です。このページ単体で¥200でも読めますが、¥3000でマガジン「ずっと、音だけを追いかけてきた」をご購入いただくと30年間全ての連載記事(全42話・¥8400相当)を読むことが出来るのでおすすめです
2015年の出来事:過激派イスラム組織ISILによる各地でのテロリズム事件が多発、日本人の拘束事件も発生 / 中東方面から多数の難民がヨーロッパへ移動 / 世界各地で異常気象が多発し世界の平均気温が過去最高を記録 / 日本マクドナルドの異物混入問題、フォルクスワーゲンの排出ガス規制不正問題、東芝の不適切会計、旭化成建材らによるデータ改ざんなど国内外で多くの不祥事が発生 / 東京五輪オリンピックエンブレム盗作騒動と新国立競技場の白紙撤回 / 過去最高(約2000万人)の訪日客と「爆買い」の流行

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2013年4月から京都精華大学ポピュラーカルチャー学部音楽コース(以下「ポ学部」)の特任教授になった。初年度は前期(4月〜7月)のみ、スチャダラパーBose君と二人の授業だった。生まれて初めての先生としての日々。とにかく頭をフル回転させる必要があった。経験したことのない脳の疲労で毎週ぐったりしたが、京都の景色も含めて今までにない刺激に満ちていた。

明けて2014年4月。今年度はいよいよ自分一人での授業が一年を通して始まった。指定のテキストなどはなく、教える内容と方法は全て自分一人で考えなければならない。

僕が義務教育の他に受けた音楽教育は、幼稚園の時に1年間だけオルガン教室に通っていたことくらい(しかもバイエル40番位で挫折)。誰にも学んだことのない作詞作曲を、先生として教えるのだ。

高校の時からどっぷりと音楽にのめり込んで、楽器を練習し、名曲の数々に感動し、無数の駄作を作り続けた試行錯誤の末に、少しずつ自己流で曲が作れるようになった。ポップス・ロックのミュージシャンで音楽の専門教育を受けた人はどちらかといえば少ないはずだ。

以前から、どうやら高野寛は音楽理論に強いと思われている節がある。デビュー時からアレンジを自分で手がけていたり、転調を多用した曲が多かったり、自己流でやっているにしては凝った曲があるからかもしれないが、曲調がひねくれているのは、ほぼYMOとビートルズとトッド・ラングレンとXTCの影響と言ってもいい(笑)それを裏打ちするのは理論ではなく、バンドと宅録を続ける中で少しずつ身に着けた「耳」と「感覚」だけだった。

未だに五線譜(オタマジャクシ)はちゃんと読めない。ポップスの世界でよく使うコード譜は、プロになってから読み書きを覚えた。弦楽器と共演する時など譜面が必要な時は、耳で良いと思った響きをコンピューターに打ち込んで、譜面に出力して凌いでいる。

*コード譜にはこんなふうにコードと曲の進行、簡単な「キメ」
(リズムを合わせて強調する場所)だけが書いてあることが多い

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そんな自分が2回生〜3回生の選択科目「ソングライティング」の制作実習で作詞作曲を教えることになった。事前にシラバス(授業計画書)を準備した。2回生に向けた「制作実習」のシラバスはこんな感じだった。

科目名:制作実習1 担当教員:高野寛 単位数: 2

①サブタイトル
ソングライティングのアイデアと集中力のために

②授業の目的・到達目標
(1)作詞・作曲の技法を発展させるためにさまざまなアプローチを試みる。
(2)それぞれの個性に合ったソングライティングの技法を見つける。
(3)イメージをふくらませ、聞き手に「伝える」ための作詞・作曲法を探す。
(4)創作に向かう集中力を身につける。

③授業の概要
個人やグループでの作詞・作曲のさまざまな実習を通して、創作の楽しさを味わい、同時に創作に向き合う集中力を養う。演奏・歌唱・編曲・録音をイメージに近づけるためのスキルを磨く。

④授業計画
第1回 授業計画の説明と、その具体例 各自の作品を試聴 個人面談
第2回 言葉を探す①(イメージを言葉に置き換える練習)
第3回 メロディをつくる①(決められた音節数に合わせて)
第4回 言葉を探す②
第5回 メロディをつくる②
第6回 モチーフから短い楽曲に仕上げる
第7回 合評・まとめ

第8回 グループ制作① 各自の得意な素材(詞・曲・リズム)を制作
第9回 グループ制作② 他者の作った素材に自分の色を加えて制作
第10回 グループ制作③
第11回 グループ制作 合評・まとめ
第12回 カバー作品の制作①
第13回 カバー作品の制作②
第14回 カバー作品の制作③
第15回 合評、各自作品のプレゼンテーション(演奏)、前期の総括

まったく作詞作曲の経験がない学生もいるので、前期は曲というよりは短いモチーフを作るところから始めて、後期になると楽曲らしいものを1ヶ月かけて作ってもらう。一人でずっとやっていると煮詰まるのでグループ制作したり、ある程度曲の作り方がわかったところで好きな曲をじっくり聴き込んでからカヴァーに挑んで、プロの曲の構造をしっかり把握する、なんてことをしてもらっていた。

授業は毎週13時から17時50分までの90分×3コマ、15〜20人の学生を相手に行う。最初の1コマは課題のテーマに関係あったりなかったりするさまざまな講義をして、その後の3時間半は、学生が課題をつくるのをひたすら待つ。ひとりひとり見て回り時々アドバイスする、そんな内容。授業が終わる頃、声はいつも枯れていた。

本当は朝8時半くらいの電車に乗れば授業には間に合うのだが、その時間帯はひどい通勤ラッシュで、うっかりソフトケースでギターを持参してしまい楽器が壊れそうになった。

結局、6時に起きて10時半には京都に到着、現地で授業の準備をすることにした。日曜の夜になると、寝坊しないかと不安で眠りが浅くなったり、翌日の授業の内容を思いつき寝床を抜け出して資料を漁ったりして、寝不足のまま大学に向かう日も度々あった。かと言って、乗り過ごすのが怖いので新幹線でも熟睡はできないのだが。

2014年は週1日、2015〜17年は週2日(月曜が2回生、火曜が3回生)、毎週授業を続けていた。確か自分の都合での休講は1度だけ。我ながらよくやったと思う。朝方駅前にちょこんと座っている猫の定点観測と、行きの新幹線の車窓から富士山を撮るのが日課になった。


僕と同時期のポ学部音楽コースには、Bose君の他に、近田春夫さん、トラックメイカーのAoki Takamasa君、シンプリー・レッドのサウンドプロデューサーとしても著名なドラマーの屋敷豪太さんなどが教授として在籍していた(Aoki君と豪太さんは2019年度も在籍)。教員控室は時にフェスの楽屋のようで(笑)、近いようでいて会う機会の少ないミュージシャン同士の会話も楽しかった。

ポ学部には、GLAYやJudy and Maryなどのプロデューサーとして知られる佐久間正英さんが監修した「Magi Studio」という立派なスタジオがある。佐久間さんはポ学部が発足した時の特任教授の一人だったが、学部が始まった2013年の夏にスキルス胃がんの末期であることを公表、秋から時には車椅子で授業に通われていた。その時スタジオはまだ建築中で2014年3月に完成予定だったが、佐久間さんはスタジオの完成を見届けることなく2014年1月に逝去され、Magi Studioは佐久間さんの「遺作」となった。最後の薫陶を受けた学生たちは、きっと大事なものを受け取ったと思う。

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ポ学部には実技や筆記試験はなく、演奏経験のない子も、その気になれば入学できる(と言ってしまうと語弊があるか?)。だから「ソングライティング」を受講する学生の経験値は様々で、バンド経験豊富な子や、既に打ち込みや楽器をマスターしてネット上で作品を発表しているツワモノもいれば、まだ楽器もできず、譜面も読めないけれど曲を作ってみたい、詞を書いてみたい、という憧れだけの学生もいた。

学生たちの音楽の嗜好も様々で、各年度によってもガラリと変わった。もちろんシンガーソングライター志望も現役バンドマンもいるが、打ち込みだけで音楽を作りたい人もいる。アニソン好きが大多数の年もあったり、ボーカロイド・同人音楽などネット上のコミュニティの音楽を中心に聞いている学生やEDMが好きな学生など、まさに多種多様(ちなみに米津玄師さんはボーカロイドの作家からキャリアをスタートしており、現在の大ブレイク以前から一部の大学生には人気があった)。

そんなバラバラな学生たちには、最初の授業でまず言葉遊びから始めてもらった。ある単語の一文字ずつから、詞のようなものを作る遊び。


僕が担当した「ソングライティング」は講義ではなく「制作実習」なので、とにかく学生が作品を作らなければ先に進まない。

初期の簡単な課題から次第に難易度の高い課題になると、シラバスの通りに進めてもうまく作品が作れない学生が出てくる。何を教えればいいのか?どうしたらできない学生ができるようになるのか? 創作する意味の根源を問われるようで、4年間ずっと葛藤し続けていた。身につけたスキルは惜しみなく公開したいところだが、自分自身が論理的に曲をつくっているわけではないので、どうしてこのコード進行は気持ちいいのか、理論ではうまく解説することもできないもどかしさがあった。

周到に仕込んだ資料を準備万端整えて「今日の授業は皆、興味津々で聞いてくれるはず!」と意気込んでも、予想に反してまったく芳しくなかった日も一度や二度ではなかった。どんなテーマを用意しても居眠りする学生は時々いた。かつての自分もそうだったように(笑)。学習が将来何の役に立つのかは、少し時が経つまで実感できないことが多い。そして教室は、お金を払ってまで追いかけてくれるファンが集うライブ会場とは違う。

僕としてはとにかく耳を鍛えて、不器用でもいびつでもいいから自分の歌いたいこと、書きたいこと、自分の音を探してくれればそれでよかった。表現したい衝動こそが何よりも先に立つもので、技法を教えて手先で作品を作っても意味はないと思っていた。学生の中から生まれてきた荒削りな言葉や音を聴いて、バラバラな作品にひとりずつアドバイスしながら、それを自分の力で育てるようにひたすら背中を押すだけ。熱意はあったが、教え方としては要領が悪かったな。でも、結局それしかできなかった。

かつての自分がそうだったように「音楽の真髄は(授業という形ではなく)先輩の背中を見て勝手に学ぶもの」ということも無言のうちに伝えたかったので、たまに教室で弾き語りした。話すより歌うほうが楽だといつも思った(笑)。

時たま、放課後に学生とセッションしたりもした。下のリンクがそれ(僕はテルミンを弾いている)。こんな分類し難い音楽ですら、初期のポ学部には普通に存在できる余地があったように思う。年を追うごとに学生の間にはJ-POP的な音楽への志向が強まって、5年が経った今では少し違った雰囲気になりつつあるのも否めない事実だが、それも時代の反映か。

「模範解答」として授業のテーマに沿った曲を作ったこともある。「七五調」で作詞をするという課題に合わせて作ってみたのが「とおくはなれて」。2018年のアルバム「A-UN」収録バージョンとは違って内省的な雰囲気のデモ。

教えることは、学ぶことでもあった。彼らの親はほぼ自分と同じ世代。僕は彼らの知らない古い音楽を教え、彼らには新しい音楽を沢山教えてもらった。無垢な学生の作品には稚拙でも時にキラリと光る原石が混じっていて、はっとさせられた。自分の中で言語化できていなかった思考や癖でやっていた技法を言葉に噛み砕くことで、再発見があった。

結局、自分にとって「グッとくる」曲を聞き続け、咀嚼して、たっぷり溜め込んだ栄養素をしばらく熟成させた末に自然と生み出されるものが「オリジナル」なのだ。歌いたくない人は歌わなくていいし、定番のスキルならネットから学べばいい。授業で伝えられるのは、その栄養素を発酵させるための酵母、触媒みたいなものに過ぎないのかもしれない。

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京都でのライブも自然と増えた。貴船神社で奉納ライブをしたり。


京都には文化的背景から芸術系大学も多く、ミュージシャンやアーティストの人口は街の規模に対してかなり多いと感じる。ローカルなミュージシャンの多さは全国でも京都と沖縄が屈指なのではないだろうか?ライブを演っているお店やスペースがそこかしこにあって、インディーズシーンの層も厚い。そんな地元を拠点にするミュージシャン達とも自然と繋がっていった。

イベント制作の授業(ポ学部にはそういう実習もある)で学生が企画したライブに、YeYeバンドのドラマー(近年は折坂悠太「重奏」のメンバーでもある)RIKKYと、スーパーノアのベーシスト・ガンちゃんと三人で出たり。


4月からは京都αステーションでの隔月レギュラー番組「FLAG RADIO」も開始(2019年も継続中)。


秋にはくるり主宰の「京都音楽博覧会」にも出演。いい天気だったな〜
写真は、ライブ直後に会場の横にある水族館で行われたラジオ公開収録イベントの模様。これだけ見るとフェスの後とは思えない(笑)



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*鴨川にて

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大学に通い始めた2013年、(ポ学部ではなく)人文学部の2回生に中村佳穂というSSW志望の学生がいた。最初に会ったのは、京都インディーズシーンの拠点・STUDIO SIMPO。僕がくるり岸田君の紹介でSIMPOで自主トレしようとスタジオに入ると、アルバム制作中の佳穂ちゃんが出てくるところだった。アルバムにはスティーブ・エトウさんも参加していて、二人でライブもやっているらしい。

動画を見て、ピアノのグルーヴ感や話から歌にシームレスに演奏になだれ込むパフォーマンスに驚嘆した。「あんたがたどこさ」のカヴァーを歌っているので矢野顕子さんに影響を受けたのかと思いきや、あまり知らないという。

以来佳穂ちゃんは時々、僕やBose君の授業に潜り込んできた。課題があると、どの学生よりも気合の入った作品を提出した(笑)

ある日僕のソングライティングの授業に潜ってきた佳穂ちゃんが、「色をテーマに曲を作る」というその日の課題の説明を聞いて、早速学食の2階にあるピアノを弾きに行き、その日のうちに1曲仕上げてきたことがあった。その曲が1stアルバム収録の「My Blue」(現在廃盤)。

佳穂ちゃんは映像学科の井上里緒奈(彼女は僕の25周年記念アルバムのトレイラーも制作している)と二人で投げ銭のイベント【箱ノナカノ海】を、学内で定期的に続けていた。「高野さんも出てくれませんか?」と言われて、「いいよ〜」と即答。通算5回くらいは出演したと思う。

*イベントのフライヤー(イラストは佳穂ちゃん本人によるもの)

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最初に学食の横のピアノの前でイベントに出た時は、まだ素通りする学生が多くて少々落ち込んだが(笑)、佳穂ちゃんの行動力もあって、回を重ねるごとに動員は増えていった。僕はいつも本気で演った。自分のことを知らない学生たちに歌の力だけでどれだけ届けられるか確かめたかった。ひとたび音楽が始まれば年齢やキャリアなど関係ない。音にどれだけ説得力があるか、それだけだ。

佳穂ちゃんが4回生になった2015年には、そのパフォーマンスは京都ローカルシーンで噂になっており、地元のミュージシャンは「今京都で中村佳穂が一番ヤバイ」と口にした。NHK Eテレ「シャキーン」の挿入歌にも抜擢されて全国的な知名度も少しずつ上っていった頃だった。

2016年1月25日の【箱ノナカノ海】最終回には、京都の沢山のミュージシャンたちに加え、僕とBose君がゲストで参加、一緒に「今夜はブギー・バック」をセッションしたりした。月曜日にもかかわらず学外からも含め180人を動員して大盛況だった。

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実はこのライブは宮沢和史ツアーの合間を縫って京都に駆けつけ、昼間授業をやった後、放課後に参加した。
2016年の1月はかなりヘヴィだった。詳しくはまた次回。

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