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京都精華大学・特任教授に就任 / ソロデビュー25周年アニバーサリー開始 (2013)

1/14、東京に雪が降った。まだ暑い夏が来る気配など微塵もなかった。

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*このエッセイはデビュー30周年の2018年のエピソードまで続く連載です。このページ単体で¥200でも読めますが、¥3000でマガジン「ずっと、音だけを追いかけてきた」をご購入いただくと、過去と今後更新の30年間全ての連載記事(全42話・¥8400相当)を読むことが出来るのでおすすめです。
*2013年の出来事:ボストンマラソン爆弾テロ事件発生 / 欧州合同原子核研究機構(CERN)が昨年7月に発見した新たな粒子をヒッグス粒子と確定 / NHK連続テレビ小説『あまちゃん』放送 / 自由民主党が現行選挙制度下で最多となる65議席を獲得/ 厚生労働省の調査の結果インターネット依存症で「病的使用」とされた中高生が8.1%、約51万8千人に上ったことが判明 / 高知県四万十市で、日本国内観測史上最高気温となる41.0度を観測 / 927ある気象観測地点のうち140地点で30度以上の真夏日を記録、51地点で10月の最高気温を更新 / 大滝詠一さん逝去

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遡ること2年前、2011年の暮れ。京都の大学の先生をやりませんか?という思いがけないお誘いを頂いた。

日本で初めてマンガ学部を作った京都精華大学というラジカルな大学に、2013年4月からこれまた日本初の「ポピュラーカルチャー学部」という学部が開設されるという。

ポピュラーカルチャー学部は音楽コースとファッションコースから成り、僕には音楽コースの「特任教授」として週に一度授業を受け持ってほしい、というオファーだった。(特任教授は一定期間のみの契約を結んで就任する教員)。

その他の教員候補は、佐久間正英、近田春夫、スチャダラパーBose、客員教授に細野晴臣、ピエール・バルーと藤原ヒロシ(敬称略)という錚々たるメンバー。面白そう!と心が踊る一方で、不安は隠せなかった。

デビューしてからずっと音楽以外の仕事をしたことはなかった(3ヶ月だけ役者はやったことがあったが...)。まったく経験のない仕事を始める不安。そして契約期間は5年間、その間毎週京都に通うことになる。ツアーやレコーディングの時間はつくれるのだろうか?

僕に課せられたのは「ソングライティング」の制作実習。学生に作詞作曲を教え、実際に作ってもらうというミッション。教え方に制約はなく自由にやってください、とのこと。「自由に」というオーダーは時に最も難しい。何をすべきか具体的なビジョンはさっぱり見えず、途方に暮れた。

ずっと丁寧に曲を作ってきた自負はあるが、独学で完全なる自己流だ。そしてさほど理論にも詳しくない。楽典が基本となるクラシックや、「バークリーメソッド」など代表的な教本があるジャズとは違って、ポップスやロックには王道の参考書はない。楽譜が読めなかったりコードネームすら知らないアーティストも山ほどいる(僕もコード譜しか読めない)。

悩みぬいた。でもこの機会を逃せば多分、こんな経験は二度とできない。思い切って知らない世界に飛び込んでみようと、腹をくくった。

2013年2月16日。SNS経由で何度かやり取りして親しくなった牧村憲一さんから、昭和音大の卒業制作講評会のゲストコメンテイターのお誘いがあった。牧村さんは山下達郎、大貫妙子、加藤和彦、竹内まりや、フリッパーズ・ギターなどにプロデューサーとして携わり、日本のシティポップの潮流を作ってきた方。ちょうどこの年を最後に、2007年から勤めた昭和音大の講師を退職するタイミングだった。

学生たちの卒業制作作品はポップスから現代音楽まで多岐のジャンルに渡っていて、時折その発想に驚かされたり、心に残る作品があった。

講評会が終わった後、見学に来ていた牧村門下生の卒業生たちと一緒に記念写真を撮った。カメラ=万年筆の佐藤望君、スカートの澤部君、マイカ・ルブテ、そしてBabi。20代の才能ある彼らは皆、牧村さんの講義を夢中で聞いていたとのこと。恩師との再会を喜ぶ彼らの表情に、どれだけ牧村さんが慕われていたのかが滲み出ていた。

そして、これから大学に飛び込もうとしていた僕が、6年間の授業を終えた牧村さんからバトンを渡されたようにも感じた。

そうか、プロデューサーになればいいんだ、と気づいた。授業だと思わずに、学生一人ひとりをプロデュースする感覚で向き合おうと思った。

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*オフィシャルサイトの日記より  

4/1(月)【「教授」と呼ばないで
教員免許がなくても大学教授になれるということを、そのとき初めて知った。 役者も司会もやったことはあるけど、まさか自分が大学の先生になるんて、想像だにしなかった。

今でもたまに自分が大学生だった頃の(実際の想い出に近い)夢をみてうなされる。単位が足りなくて留年しそうになって、ものすごく焦る夢。夢から醒めると「あぁ、学校出られてよかった」といつも思う。そんな自分が、、、である。

お誘いを受けたあと、たっぷり一ヶ月間は悩んだ。誰かに相談してもみんな「やればいいんじゃない?」「高野くん向いてそう」とか言うのだった。そして遂に、腹をくくった。いやはや。こんな日が来るとは。人生って不思議。

「特任教授」任命の「辞令」を受け取って来た。
僕の隣には佐久間正英さん、近田春夫さん、スチャダラパーのBose君。
前の席にはひさうちみちおさん、すがやみつるさん、おおひなたごうさん。

就任式のあと入学式の会場に移動したら、先生方のブルースバンドがジャムっていた。やがてボーカル隊が加わってRCサクセションの「よォーこそ」の替え歌になった。学長・各学部長のスピーチはどれも印象的だったが、人文学部のウスビ・サコ先生(マリ共和国出身)の言葉が特に響いた。(*サコ先生は2019年度から学長に就任、日本の大学史上初のアフリカ出身・ムスリムの学長となった

式次第が終了にさしかかったところで、学園祭の実行委員たち(学生)が「ちょっと待った~!」と叫びながら客席の後ろから走ってきて、舞台に駆け上って学園祭のアピールをしていた。と、文に書いてみるとホントに夢みたいな、非現実的なシチュエーションの連続。おまけに4月1日だ。逐一ツイートしたい欲求に駆られたが、やめておいた。どこまでが本当かわからなくなりそうで。

それはそうと、初対面の学生たちはイキイキした目をしていた。「教えようと思わないで、学生と一緒に創って下さい」と、先生方からアドバイスを受けた。精華大では、生徒は先生を「◯◯先生」と呼ばずに「◯◯さん」と呼ぶ場合がほとんどらしい。きっと、僕もたくさん教わるのだ。日本で初のポピュラーカルチャー学部の出発の一日、僕はカルチャーショックにやられっぱなし。

そして表題の件、どうぞよろしくお願いします。紛らわしいので(笑)

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開設されたばかりのポピュラーカルチャー学部、もちろん初年度に在籍するのは一回生のみ(関西の大学では「一年生・二年生」ではなく「一回生・二回生」と呼ぶ)。僕が担当する(ことになる)ソングライティングの「制作実習」は二回生と三回生のカリキュラムなので、2013年度は大学に慣れる目的も兼ねて、「企画演習」という前期のみの実習を毎週2コマ(3時間)、スチャダラBose君(以下ボーちゃん)と二人で担当することになった。

ボーちゃんは以前から何度か精華大のデザイン学部の特別講義をやっていたことがあり、僕よりは大学に慣れていた。だから授業が始まったばかりの頃、ボーちゃんにはずいぶん助けてもらった。

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*この対談集の中で、Bose君と授業の詳細について語っています。


教えることは、自分にとっての学び直しでもある。まだ創作の本質を知らない学生は、何をきっかけに目覚めるのか? そのことをずっと考えていると、暗闇の中で手探りで曲を作っていた自分が大学生だった頃の感覚が蘇ることがあった。

大学世代の若い人と触れ合う機会など甥っ子と話す正月くらいしかなかったので、最初はうまく話せず緊張した。特に芸術を志す若者にはシャイな子が多い。そういえば自分もそうだったな(笑)。

ほとんどの学生は、僕やスチャダラパーのことなど知らなかった。彼らにとって、僕らは親の世代。中には古い音楽にとても詳しい学生が少数いて(殆どの場合、親が音楽好きで家に沢山のCDやレコードや楽器がある)、70〜90年代の音楽もよく調べていたりするのだが、大半の学生にとっては「あの先生、ミュージシャンらしいよ」程度の感覚しかなかった。そのことはかなりショックだったし、「ググれよ」と愚痴の一つもこぼしたかったが(笑)現実を知るいい機会ではあった。

この頃の新入生が、ちょうどYouTubeで育った初めの世代だった。ネット上には高野寛の動画があまり多くないこと、「高野寛」で検索しても検索結果上位の動画は90年代のヴィデオからのキャプチャで非常に画質が悪いこと、なども大学生世代にアプローチできない原因なんだろうと推測できた。

そう、いくらライブとリリースを続けていても、動画しか観ない彼らにとって、「高野寛」は「画質の古い過去の人」なのである。

彼らから学ぶことは多かった。彼らは僕を知らないし、僕は彼らが好きなアーティストを知らない。当時学生の間で一番よく名前が挙がっていたONE OK ROCKを調べてみる。バンド名は「ワンオクロック」と読むのか、とか、ヴォーカルTakaの両親が森進一・森昌子と知ってなるほど、と思ったり。

音楽コースの学生は授業で使うために全員MacBookを購入するのだが、2014年入学の2期生以降はMacBookがモデルチェンジして、内蔵CDドライブが廃止された。

当時日本の音楽業界はまだ配信には消極的で、なんとかしてCDを買ってもらうことに腐心していた時代だったが、大学生にとって¥2000〜3000のCDは高い。彼らはCDはほとんど買わないが、ライブはたまに見に行く。京都から大阪まで見に行ったりもする。CDよりライブの方が優先順位が高いのだ。

そもそも一人暮らしの学生のほとんどはCDを聞きたくても部屋にプレイヤーもラジカセもなくて(2014年以降は)Macにすら読み込めないという実態。「CDを買って欲しい」という作り手側の願望など、学生にはほとんど響かないということを肌で感じた。それは音楽業界という狭い世界から外に出て初めてわかったことだった。

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