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土曜ソリトンSide-B : あれから20年 ②

 その2:激しい時

 ソリトンSide-Bの始まる直前の1995年1月〜3月、とにかく激しかった時代。番組の思い出を語る前に、あの頃のことを思い出してみる。記憶がかすれてしまう前に。

1月17日 - 午前5時46分「兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)」発生。

 1995年1月17日火曜日午前11時過ぎ、僕は寝坊してあわてて身支度をして、外苑東通りを西麻布方面に向かって走っていた。事務所でTHE BOOMの宮沢和史くんからの電話に出て「いいとも!」と答えるために。

 21世紀初頭まで「笑っていいとも」の友達の輪は、あたかもその場で友達に電話する体で進行していたが、そこはバラエティのお約束。実際は何人か先までスケジュールが決まっていて、あくまでその場でいきなり電話をする「ふり」をしていただけ。(でなきゃ、あんなにうまく次の人に繋がるはずないわけで)
 
 テレビを見る習慣がなかったので、そのとき関西で何が起きているのかはまだ知らないまま車を走らせていた。すると青山3丁目の交差点を少し過ぎたところで携帯が鳴った(メールはまだない)。「神戸が、大変なことになってます… 」マネージャーが緊張した声でそう告げた。

 事務所では、全員が食い入るようブラウン管に見入っていた(液晶はまだない)。すべてのチャンネルが通常の番組を中止して燃え上がる街やひしゃげたビルや折れた高速の支柱や瓦礫の山を追っていた。結局「笑っていいとも」はその週は休止。翌週以降の僕に続くゲストのスケジュールが合わず、結局僕を飛ばして一度切れた「友達の輪」は他の誰かに繋げられた。

 あの日のあのタイミングは、今思えば示唆的だった。予期せずヒットに恵まれテレビにも沢山出演していた僕だったが、いつもテレビの中では居心地が悪かった。元々、喋るのが苦手だから音楽で表現していた自分が、限られたテレビのトークの時間に、気の利いたことなど言えるはずもなかった。緊張すると、普段に輪をかけて堅物キャラになってしまった。

パソコンが本格的に普及したのはまさに1995年発売のウインドウズ95以降。もちろんブログもホームページもまだない。メディアが勝手に貼り付けるレッテルを自分の言葉ではがすのは、容易ではなかった。

 「夜のヒットスタジオ」では司会の古舘伊知郎さんに「歌うメンズノンノ・高野寛さんです」と紹介されたり。「さわやか」と言われてしまう自分が、あの頃は嫌で仕方がなかったのだ。ライブでは「虹の都へ」目当てのお客さんの前でフリーキーなギターソロを延々弾いてたこともあった。若かったな、と今は思う。

 実はこの時期、生まれて初めて役者に挑戦していた。1月13日から始まった連続ドラマの準主役、しかも悪役。「爽やかで良質なポップスシンガー」のイメージをぶち壊すいい機会だと思って難しい課題に挑んだのだが、不運なことにドラマの放送が始まった4日後に震災に見まわれた。ちなみにドラマのタイトルは『揺れる想い』。 地震でリアルに揺れてしまった日本人にはドラマに感情移入する余裕はなかった…

 そう、1995年は時代が変わるときだった。この大地も、人々の心も、価値観も、揺れていた。もしかすると震災のあの日、「いいとも」という国民的番組(=「サイドA」)に繋がる輪がぷっつりと切れたのは、僕のテレビとの関係がリセットされたことの象徴だったのかもしれない。

(続く)

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