ナタリーイラスト__2001_

「サヨナラCOLOR」のプロデュース / ナタリー・ワイズに加入 / 初めての映画音楽 / 9月11日 (2001②)

*2022.6.13 しばらく全文無料公開いたします。
*2020.5.26 加筆修正しました。
*このエッセイはデビューから2018年までの30年間を1年毎に振り返る連載です。ページ単体で¥200でも読めますが、¥3000でマガジン「ずっと、音だけを追いかけてきた」をご購入いただくと連載の全ての記事(全42話・¥4800相当)を読むことが出来るので、おすすめです。

2001年1月26日にSUPER BUTTER DOG(以下SBD)のアルバム「grooblue」がリリースされた。2000年後半、プリプロからじっくり付き合ってアルバムトータルのサウンドプロデューサーとして関わった作品だ。

メンバーは永積タカシ(ボーカル・ギター)竹内朋康(ギター)池田貴史(キーボード・コーラス・ボーカルTOMOHIKO(ベース)沢田周一(ドラムス)の5人。後にタカシはハナレグミとしてソロデビュー、そしてキーボードの池ちゃんはレキシとしてテレビでも人気者となった。

2ndアルバム以降、SBDはずっとプロデューサーを立てずに自分たちだけで作品を作ってきたが、5枚目のアルバム制作にあたって初めて僕が制作に関わることになった。僕のポップスの感覚とバンドのブラックミュージックをベースにした音楽性の化学反応を期待されての起用だったと思う。

それまでも何度かSBDのライブは見ていたが、プロデュースのオファーをもらってあらためて渋谷AXでのライブを観に行った。演奏は申し分ない。ただ不思議だったのは、リードヴォーカリストのタカシはあまりMCをせずに、もっぱらMCやライブの盛り上げ役は池ちゃんだったこと。エコーをたっぷり効かせたマイクでMCしながら椅子の上に立って客席を煽ったり、足でキーボードを弾いたり。タカシは終始クールで、心の底に秘めたものがあるような気がした。

ちなみに池ちゃんのエンターテイナーぶりに感心した僕は、ライブ視察後ディレクターに「タカシと池ちゃんのツインボーカル体制にしたらどうですか?」と提案したが一笑に附された。その頃は池ちゃんはまだリードヴォーカルの経験はなく、タカシの圧倒的な歌唱力とは釣り合わなかったので賢明な判断だとは思うが、その後のレキシがシャカッチことタカシとデュエットしている「大奥〜ラビリンス〜」(2012)や「憲法セブンティーン」(2014)を聞くと、案外先見の明があったのかもしれないと今は思っている(笑)

僕の役割は、プリプロ(レコーディングのためのリハーサル)からスタジオに顔を出して、みんなの個性を知って引き出すこと。バンドが方向性に迷った時に決断すること。タカシが歌詞に煮詰まった時にヒントを出したり飲みにいったりすること。録音や歌入れがストレスなく進むように手順を考えたり準備すること。そしてストリングスアレンジ。言ってみれば、部活の顧問のような立ち位置だな(笑)

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アルバムのレコーディングも終盤に差し掛かった頃、タカシがアコギで弾き語りした新曲のデモを持ってきた。切なく力強いミディアムバラード。名曲だと思った。当初タカシは「この曲は弾き語りのままボーナストラックでアルバムの最後に入れたい」と言っていたが、ボーナストラックに収まるような曲ではないと思ったし、弾き語りだと他のアルバムの曲とのバランスがとれない。

そこで「まずバンドでやってみようよ」と提案した。目白のリハーサルスタジオで、全員でカセットを聞いた。みんな無言のまま神妙に聴き入っていた。そして無言のまま音を出し始めた。

僕は、タカシの弾き語りからスタートして少しずつメンバーが参加するアレンジを提案した。タケが泣きのスライドギターをかぶせてきた。Aメロの折返しから入ってくる周ちゃんのストイックなドラムは曲想にぴったりだった。トモヒコは周ちゃんに寄り添って動物的直感で淡々とベースを弾いた。間奏で池ちゃんがディレイをかけたピアノのフレーズを思いついて「お、それいいね」と言ったのを覚えてる。タカシの弾き語りの世界を支えながら物語を紡ぐアレンジが完成した。

当時のタカシは時々歌のレコーディングに苦労していた。録音済みのトラックに合わせて歌だけ録音するのは苦手で、スタジオでもライブと同じようにバンドに合わせてギターを弾きながら歌うと一番いい歌が歌えるのだった。根っからのライブミュージシャンだった。今までいろいろなヴォーカリストと共演してきたが、特に日本にはそんな歌い手は滅多にいない。

レコーディング当日。タカシはその頃まだいいアコギを持っていなかったので、僕のハミングバードを使うことにした。サウンドチェックで軽く1回、その後2回。1時間ほど演奏しただけでバンドのダビングは一切ない、スタジオライブの状態でOKテイクは完成した。

ラフミックスを持ち帰ったその晩、僕がカルテットの弦アレンジを考えた。バンドの邪魔をしないように極力シンプルに仕上げた。翌日のストリングスのダビングも1時間ほどで終了。そんな「サヨナラCOLOR」が生まれた時の特別な感動は、今でも鮮烈に脳裏に焼き付いている。

「サヨナラCOLOR」は発売後じわじわと評判が広まり、高橋真梨子 / 大沢誉志幸 / 小泉今日子 / スガシカオ / RADWIMPS / プリシラ・アーンなど世代を超えて多くのアーティストにもカヴァーされ、愛された。

その後タカシはアコースティックの弾き語りを軸にしたソロ活動を「ハナレグミ」名義でスタートする。2005年には竹中直人監督が「サヨナラCOLOR」をモチーフにした同タイトルの映画を制作し、サントラでは忌野清志郎さんとハナレグミがこの曲をデュエットしている(サントラは「ハナレグミ、クラムボン、ナタリー・ワイズ」名義)。

ハナレグミの活動が活発化したこともあって、SBDは2002年のライブアルバム「ラ」を最後に活動を休止。2008年に活動を再開したものの、同年9月には解散を決めた。

僕がバンドのアルバム全曲をプロデュースしたのはフライングキッズの「Down to Earth」(1997)以来。フライングキッズとSBDには共通点が幾つかある。学生時代からの仲間で結成されたバンドであり、ファンクをベースにしたユーモアを忘れない音楽性が持ち味で、ヴォーカリストの名前は「タカシ」(笑)。解散まで全員がとても仲良しだったこと、そして何故か僕が参加した2枚のアルバムが最後のスタジオ録音のアルバムになってしまったところも。スケジュールが合わずに、東京での解散コンサートが見れなかったので大阪まで遠征した思い出も、被る。

*2008年9月13日、日比谷野音での最後のライブの記念写真
ツアーパンフレットより

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2001年の夏、僕はデビュー以来12年間お世話になった高橋幸宏さんの事務所・オフィスインテンツィオを円満退社してファイブ・ディーに移籍した。THE BOOM、Super Butter Dog、中村一義、HEAT WAVEなどが在籍する大きな事務所だった。若いスタッフがワイワイ出入りしているのが新鮮だった。幸宏さんからの「親離れ」の時でもあった。

前後して、1996年の「Time Wave Zero」での共演以来時々遊んでいたBIKKEから連絡があった。Tokyo No.1 Soul Setを休んで、新しいバンドを始めるという。

*当時の日記より

6月に山のようにこなしたスタジオセッションの中でいちばん楽しかったのが、「ナタリーワイズ」のレコーディングだった。ピアニストの斉藤哲也君とBIKKEのバンドに、僕が加入することになったのだ。

たった4日のレコーディングで4曲+小品2曲を録った。バンドは15年ぶり、つまりデビューしてから初めての出来事。デビュー前にバンドのリード・ヴォーカルでステージに立ったことはほとんどなかったし、「ギターとコーラス」でバンドにいるのは自分にとって収まりがいい。

ナタリーワイズ (BIKKE命名) の音を文字で説明するのはムツカシイ。編成はピアノ(&アコーディオン)+ギター(&テルミン)+声。「ドラムを入れない」ということ以外、コンセプトのようなものもない。

BIKKEは朗読のような、歌のようなラップで詩を放つ。ぼくと斉藤君はインストバンドのように楽器で会話する。こうして分析めいたことをしてみてもまだ一緒に音を出し始めて延べ一週間にも満たない。未完成ゆえの可能性がいちばん面白い。

こうして生まれたのがナタリーワイズ初の5曲入りのミニアルバム『THE MARBLETRON SESSIONS 2001/06/11-06/14』だった。
歌い方もソロの時とは意図的に変えて、その頃よく聞いていたブラジル音楽のように、力を抜いた囁きに近いヴォーカルスタイルを試みた。

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ナタリー・ワイズの音楽は、映像と相性が良かった。

ふとしたきっかけで、台湾で活動する映画監督、永野宏明こと鄭 有傑(チェン・ヨウチェ)のショートフィルム『石碇(シーディン)の夏(石碇的夏天/Summer, dream)』の音楽をナタリー・ワイズ / アンダーカレント(斎藤哲也のソロプロジェクト)/ 高野寛が担当することになった。チェン・ヨウチェは、初の短編映画『BABY FACE』の制作で台湾国内で年間5名のみ選ばれる優秀な映画監督として認められた監督であり、俳優でもある。

*『石碇の夏(石碇的夏天/Summer, dream)』より

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ヒロくんことチェン・ヨウジェ監督と初めて会った時はまだ24歳だったが、36歳の自分より大人に思えるほど落ち着いた人だった。日本語も英語も堪能で、会う前から知っているような、たくさんの言葉を交わさなくても通じ合える感覚があった。

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2000年頃に作っていた曲「美しい星(美しい夜)」はまるで「石碇の夏」のエンディングシーンのために作った曲のようだった。『石碇の夏』はその年、中国語圏で最大の映画祭・Golden Horse Film Festival(台湾金馬奨)でベスト・オブ・ショート・フィルム賞を受賞した。

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*2002年の第15回東京国際映画祭・ティーチインの書き起こし
http://www.gangm.net/filmFestival/tiff02/qa1.html


ナタリー・ワイズは初期衝動のままに、フルアルバムの制作に入ることになった。ソロ作品と並行して作っていたインスト曲のストックもあったし、作りかけのモチーフをバンドに投げるとBIKKEと斉藤君が新しい方向に膨らませて曲が育っていくのが新鮮で楽しかった。

アルバムレコーディング初日、作業は順調に進んでいた。夜22時を回ったころ、スタッフが青ざめた顔でスタジオに入ってきて、独り言のようにこう言った。「第三次世界大戦が始まった。テレビをつけて!」









そして、スタジオのモニターに映った光景は....






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煙を吐くニューヨークのビルと、その隣のビルに吸い込まれるように激突する航空機。初め、それがニュース映像だとは誰も理解できなかった。

結局、その日の録音は中止になり、僕は家で一晩中ニュースを見ていた。ひたすら繰り返される同じ映像。錯綜する情報。悪い夢を見ているようだった。厭世的な気持ちに染められたまま、夜明けを迎えた。

翌日、BIKKEは大きなショックを受けて歌えなくなってしまった。仕方なく斉藤くんと二人で先にインスト曲を録音した。後にBIKKEが朗読を重ねて「天と点」という曲になった。真っ黒に塗りつぶされた心に、演奏している間だけ小さな明かりが灯るようだった。あの時、バンドがあって良かったと本当に思う。

ナタリー初のフルアルバムは、翌年1/23にリリースされた

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「No Signal」のMVはチェン・ヨウジェ監督作品。


*ナタリー・ワイズの1stには
アートワークに僕の絵やコラージュが使われている

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*当時のインタビュー

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こうしてあの頃を振り返ると、もう忘れたはずの心の傷跡に、今も鈍い痛みが蘇る。人類は20年近くたった今も、あの事件を総括できていない。

誰も想像だにしていなかった。華々しい21世紀の幕開けの直後、突然の暗転から始まった悲劇的なストーリー。時代の位相は一気に真逆の方向に捻じ曲げられてしまった。いや、湾岸戦争の頃にも垣間見えた長い歳月に渡る国際的な政治の歪が、改めて目に見える形でニューヨークに噴出した、ということなのだろう。

ナタリー・ワイズの憂いを帯びた音楽性や、僕の脱力した唱法は当初、それまでの高野寛の「ポップス」を聴いてきたファンを戸惑わせたと思う。でも、2001年9月11日から迷い込んだ混沌としたこの世界との共時性においては、まったく意図せず時代を捉えていたのかもしれない。誰も、そんなことは望んでいなかったはずなのに。

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