ハーデス

それでもきっと 言葉を超えて

1991年2月、僕はレコーディングの為にアメリカ・ニューヨーク州の北にあるウッドストックのトッド・ラングレンのスタジオにいた。『虹の都へ』『ベステンダンク』がヒットして、次作も是非トッドのプロデュースで!と僕も周囲も望み、多忙なトッドのスケジュールを半年以上待ってやっと実現したレコーディングだった。

ところが。
レコーディング直前の1990年末からアメリカとイラクの緊張が高まって、1991年、渡米の直前に湾岸戦争が開戦してしまった。当時は円高の影響もあって日本のミュージシャンはこぞってアメリカやイギリスでレコーディングしていたのだが、航空機のテロを警戒してほとんどの人たちが海外レコーディングの予定を取りやめてしまった。

周囲には「中止すべきでは?」という声もあった。しかし制作を進めなければ発売に間に合わない。待ちわびたチャンスを諦めて日本でセルフ・プロデュースで録音するなんて考えられない。不安はあったが、いい作品を作りたい気持ちの方がはるかに上回った。迷わずアメリカでのレコーディングを決行した。

結局、行きも帰りも何事もなかった。入国の時は少しだけ前回よりセキュリティチェックが厳しかったが、一度入ってしまうとアメリカ本土は戦争中の国とは思えないほど一見穏やかに見えた。雪深いウッドストックのスタジオで、また僕は音作りに没頭した。

しかし音の世界から抜け出すと、折々に前回のアメリカとは違う違和感があった。

仕事を終えてテレビを見ていた時。勇ましいファンファーレの後に「本日の速報」みたいな報道があって、ホーンが鳴り響くBGMに乗って、今日は敵地をいくつ爆撃したとか、何機敵機を撃墜したとか、まるでバスケットの試合結果みたいに報告するのだ、毎日。自国の領土を他の国から攻められたことがないアメリカ。その、戦争に対するメンタリティの違いにぞっとした。

「サタデー・ナイト・ライブ」ではターバンを被ったコメディアンが「イラーキーP」という名前でおどけてみせ、アメリカ兵が彼を殺すコントも。喪に服しているかのような「自粛」ムードの当時の日本のマスコミとはまったく違っていた。アメリカ人は自国が戦っている時でも戦争を茶化せるのだ。「俺たちが負けるはずはない」という、絶対的な確信の表れなのかもしれない。

ウッドストックは、かのロックフェスティバルが開かれた時よりずっと前、移民が大陸にたどり着いた直後から芸術家の住む街として続いてきた背景があったそうだ。ヒッピーと芸術家がたくさんいる街には、1990年代にも独特の雰囲気が漂っていた。街の中心部では長髪でヒゲもじゃのヒッピー然とした人たち(年齢不詳)が「NO WAR」のプラカードを掲げてデモをしていた。国旗を掲げる家もあったが、黄色いリボンを家の前に縛り付けている家もあって、それは戦地に赴いている自分の家族に無事帰ってきて欲しいというシンボルなのだと訊いた。

その時作った曲に『紳士同盟』という曲がある。

渡米直前に、アメリカ経由のイメージで(つまり「イラクが悪者、フセインは独裁者」という認識で)寓話として書いた詞。世界史にも国際情勢にも疎い26歳の若者が書いた、理想論の詞ではある。久しぶりにライブで歌ってみようかと思い改めて声に出して、本当にあの時は何も分かってなかったなとつくづく感じた。

湾岸戦争の時にアメリカにいたことは、いつか文章にまとめなければ、と思っていた、今日。
『日本語でTweetしていたISIL自爆要員ハーデスさんとの対話まとめ』(http://matome.naver.jp/odai/2142222254072200701)を読んだ。ツイッター越しに自動翻訳機を介してISILの兵士と日本の市民が戦争と平和について語りあうなんて。『紳士同盟』最後の「それでもきっと 言葉を越えて いつか話し合える時が来ると知っています」というフレーズが現実になったように、思えた。
(もちろん、このアカウントの真偽を確かめる術はないけれど)

この曲が収録されたアルバム『AWAKENING』は、レコーディング中に観た映画『レナードの朝』の英語タイトルから取った。
「目覚め」つまり自分の中のチャンネルを切り替えて気づかなければ、という気持ち。『紳士同盟』の「東も西も関係ないでしょう つまり 眠ってるか目覚めてるか それだけです」というフレーズも、もちろんそこから来ている。

ただ、それでも。
湾岸戦争のずっと前から、その後の24年の間にもずっと積み重なってきたアラブと欧米の闘いの歴史の前には「気づく」なんていう軽さでは解決できない重い事実がある。憎しみの連鎖はもう「話し合い」で解決できる段階にはないのか。

あれから24年、僕は何に気づいて、何を忘れてきただろう。そしてあの時も今も、何も出来ないまま。

2015年の日本。ニュースはもちろん連日トップに人質事件のことを伝えた。でもチャンネルを変えると、何事もなかったかのようにバラエティやドラマも放送されている。「喪に服していた」感を強く感じた1991年の日本とは違う。

いま僕らは、同じ国に住んで同じ言葉を話しているのに、幾重にも重なった事象と認識のレイヤーの間で、まったく異なるタイムラインの中にいる。

寝ぼけたままでは、どこかとんでもないところに連れて行かれそうだ。ちゃんと知りたい。想定しておく。つべこべ言わない。友達と話し合いたい。理想は捨てない。現実を知りぬいて、地に足をつけて。重い現実を知りながら、それでも作品に夢を投影したい。そう、思った。

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