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テイ・トウワ君・坂本龍一さんとのレコーディング : TOKYO-N.Y.(1994①)


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*1994年の出来事: ルワンダで集団虐殺開始(約100日間でおよそ100万人)/ ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国初の黒人大統領となる / オウム真理教による松本サリン事件発生 / ロックバンドGLAYがX-JAPANのYOSHIKIプロデュースによりメジャーデビュー / 日本人初の女性宇宙飛行士・向井千秋を乗せたスペースシャトルが打ち上げ / ジュリアナ東京閉店 / 「セガサターン」「プレイステーション」発売 /

1994年は「約束の旅」「夢の中で会えるでしょう」の2枚のシングルを発売したものの、アルバムの発表はなかった。アルバムをリリースしない年はデビューから6年目にして初めてだった。

1月下旬、福岡、名古屋、東京で「パワーアンテナ スペシャル 冬の陣」と題されたMr. Childrenと高野寛による2マンライブが行われた。

ミスチル

ミスチルと最初に会ったのは多分’90〜91年頃、彼らがメジャーデビューする少し前だったと思う。何処かの学園祭で桜井君に話しかけられて、「デビュー前、高野さんの曲を歌っていました」「『RING』の小林さんがプロデュースしてる曲(「Blue Period」「カレンダー」)が良かったので、今度僕らもお願いしようと思ってるんです」と言われたことを覚えている。

イベントのアンコールでは、桜井君がアマチュア時代に歌っていたという「夜の海を走って月を見た」とミスチルの「君がいた夏」を一緒に演奏した。およそ半年後の6月、ミスチルはシングル「innocent world」でバンド初のオリコンチャート1位を記録する。まさに大ブレイク直前のタイミングだった。

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4月初めには、坂本龍一さんのアルバム「Sweet Revenge」収録曲「君と僕と彼女のこと」(作詞:大貫妙子 作曲:坂本龍一)にボーカルとギターで参加している。録音は、ニューヨーク(NY)から送られてきたデータにダビングする形で東京で行われた。

当時ADATというVHSテープ(家庭用のヴィデオテープ。若い読者もいるかと思うので、こういう用語の解説も必要かと...)を使ったデジタル録音機材が開発されて、国境を越えて録音することのハードルがずいぶん下がったことが背景にある。それまで、CD音源のためのデジタルマルチ録音は一千万円以上もする巨大なプロ用テープレコーダーが必要だったが、ADATがその敷居を大幅に下げた(数十万円程度の機材で8トラック録音できた)。

そんなわけで、何kgもするマスターテープを空輸して行っていた海外との録音のやりとりもヴィデオテープの郵送で可能になった。90年代後半の技術革新とネットの発達、コストダウンの恩恵はとても大きかった。その後10年ほど経つとネット経由で誰でも国境を超えての音楽制作が可能になり、アマチュアとプロの録音クオリティの差もほとんどなくなってゆく。

そして5月半ば、(当時NY在住だった)テイ・トウワ君が初ソロアルバム「Future Listning !」の録音のため来日した際に、ギタリストとして3曲参加することになった。

*この曲のギターは僕、ヴォーカルは野宮真貴さん。

すると、たまたま同じビルの上の階のスタジオで「Love, Peace & Trance」の録音をしていた細野さんと遭遇。見学に行ったついでに、スタジオの椅子をペンで叩いたりしてパーカッション?で参加することになった。下の曲でうっすら聞こえる金属的な音がそれ。日記によると、この日はテイ君の録音に来た立花ハジメさんにも会ったりして、作業が終わった後ダラダラと12時間もスタジオにいたらしい。

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閑話休題。

僕は高校生の頃、坂本龍一さんのラジオ番組・サウンドストリート(NHK FM 1981〜1896)を愛聴していた。番組には月に1度くらい「デモテープコーナー」と呼ばれる名物企画があって、リスナーたちが録音したデモテープの優秀作品が紹介された。テクニックや完成度が競われる一般的なコンテストとは違って、一発ギャグのような可笑しみのある音遊びや替え歌など、つたなくてもアイデアやインパクトがあれば評価されるところが好きだった。

YMOはアートやお笑いなど音楽以外の分野でも新しい価値観を僕らに教えてくれた。雑誌「ビックリハウス」のユーモアや、(YMOが一緒にアルバムを作った)スネークマンショーやSETのギャグは、YMOフリークの少年少女たちの大好物だった。電気グルーヴがいつもふざけてはぐらかしているのは、そんな「YMOの笑い」を継承しているから。

で、僕はといえば、「サウンドストリート」入選作品のレベルの高さに怖気づき、結局応募する勇気のないまま番組は終わってしまった。もし高校時代に録ったこのYMOのアコギカヴァーのデモを投稿していたら、また少し違う人生を歩んでいたのかもしれないと、今思ったりもする。

「デモテープコーナー」の中でもひときわ異彩を放つ、(当時のアマチュアとしてはとても珍しい)サンプリングを駆使したサウンドコラージュ作品を投稿していた常連がいた。「テイ・トウワ」という変わった名前、自分と同い年の美大志望の予備校生。坂本さんの評価も常に高くて、僕は勝手に彼を「同い年の仮想ライバル」に想定していた(笑)。


後に「デモテープコーナー」の優秀作品はアルバム「demotape 1」にまとめられた。テイ君はジャケットのアートディレクションも手がけている。アルバムには当時高校生だった槇原敬之君の作品も。


その後何年か経って、唐突に「テイ・トウワ」の姿を深夜番組で見つけて驚愕した。「FUJI AV AUDITION 1987」という映像コンテストでグランプリを受賞したのがこの作品だった。まだヒップホップカルチャーが日本ではあまり知られていない頃。そして、僕が「究極のバンドオーディション」に合格したのと同じ年。

「NEIGHBORHOOD ON THE BPM112」(FUJI AV AUDITION 1987)



更に1990年、僕が「虹の都へ」をリリースした年、Deee-Liteのメンバーとして世界に華々しくデビューしたテイ君の姿を見て、僕は再び度肝を抜かれた。ハイセンスなデモテーパー→ヒップホップを吸収したアートスクール学生→突然変異的ハイブリッドユニットのメンバー という進化は想像以上だった。


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