音楽家からブルワーへ。海老名ビール事始め vol.1

平井史香、チェコと出合う

 平井史香は、学生時代、留学の夢をもっていた。漠然と貿易関係の仕事に就きたいと思っていたからだ。それを実現するために語学留学先を探していたが、欧米は手持ちの資金で行くには少々高かった。そこで上海に渡ることにした。20代後半のことだ。それは中国が急成長していた時代で、悪い選択ではなかった。1年経ったところで、上海で日本語教師の仕事を始める。だがやってみると、日本人だから日本語を上手く教えることができるということでもなかった。日本語教師になるためにはきちんとしたスキルがいることを痛感した平井は、半年経った時点で日本に戻り、日本語教師となるべく学び始める。が、残念ながら資格試験は思い通りにはいかなかった。

「やっぱり英語だ」と思い直し、平井は手軽にできるネットのペンパルを探し始めた。そして彼女とペンパルになったのが、プラハ在住で後に夫となるレハク・トーマスである。2003年4月の頃の話だ。

 半年ほどネットでやりとりをした後、平井は、プラハがどこにあるのかも知らなかったのに、彼に誘われるままに初めてのヨーロッパに向かった。3か月のビザなし渡航を終えいったん日本に戻ってきたのだが、とんぼ返りをするようにまた観光気分でチェコに旅立つ。そんなチェコでのある日、トーマスの母親が「結婚しないのか?」と聞いてきた。それに対し彼が「たぶんする」と返事を返すのを聞いて、「ああ、そうなんだ」と平井は内心思った。そしてそのまま日本には戻らず、2005年2月25日にプラハで結婚する。

 平井の父は旅行会社勤務で、クラシック音楽好き。欧米に親近感をもっていた。平井自身はそんなことを全く意識はしていなかったが、結果的に、チェコで音楽家と結婚することになって父親は喜んだはずだと平井は思っている。結婚式には、日本から家族も駆けつけ、反対どころが祝福され平井の新しい生活が始まった。

プラハ国立歌劇場のチューバ奏者

 レハク・トーマスはプラハ国立歌劇場のチューバ奏者である。演奏旅行で家を留守にすることも多く、二人の子どもと過ごす時間も少なかった。が、安定した職業であり、二人はこのままチェコに住み続けることをいったんは決心した。

「実は、ドラッグを初めとして、いろいろ問題のある国なんです、チェコは。マリファナは薬局で買えますし。子どもたちを育てるのは難しい国かもしれないと感じていました。それでも、親が気をつければ大丈夫なんじゃないかという希望も捨てきれなくて、チェコで暮らそうということになりました。子どもたちの学習机も向こうで揃えたり、本当にそのつもりだったんです」

 しかし、シリアの難民問題がチェコにもさまざまな影響を与えるようになっていた。EU圏であるチェコにも難民受け入れを迫る国際世論。チェコの人たちは反対している。それができないのなら、EUから外されるかも知れないという不安。情勢はどんどん悪くなっていくように思えた。

「毎年、夏になると家族で日本に来ていました。ホームブルーイングが趣味の主人は、日本でブルワリーをやりたいなどと言ってはいたんです。主人はちょっと変わったところがあって、サービス業の接客態チェコの自宅でホームブルーイングを楽しむ。度や、交通マナーの悪さ、ペットのしつけなど、細かな点でチェコ嫌いでした。そういうことが気になるのなら、私も彼は日本の方が合うかも知れないと思っていました。日本に来るといつも生き生きとしてましたからね。でも、ブルワリーとなると話は別です。とてもそんな資金はありませんでしたから、私は彼の言うことをそんなに本気では聞いてはいませんでした」

 チェコの自宅でホームブルーイングを楽しむ。度や、交通マナーの悪さ、ペットのしつけなど、細かな点でチェコ嫌いでした。そういうことが気になるのなら、私も彼は日本の方が合うかも知れないと思っていました。日本に来るといつも生き生きとしてましたからね。でも、ブルワリーとなると話は別です。とてもそんな資金はありませんでしたから、私は彼の言うことをそんなに本気では聞いてはいませんでした」

ビールの国、チェコ。

 チェコは世界一ビールを飲む国である。国別の消費量では中国が圧倒的な1位でチェコは25位までに入っていないのだが、国民一人当たりの消費量となると、142.6L(日本の大瓶換算225.3本)で1位。しかもこの座を22年連続で維持している(キリンビール大学レポート 2014年 世界主要国のビール消費量)。

 平井が出会ったチェコの人々も、その数字を裏付けるかのようにビール好きだった。赤ら顔でリターナブルの空瓶を引きずってスーパーへ向かう老人たち。ビジネスの合間だろうが、水のようにみんなビールを飲む。実際問題、ビールは水のように安いのだ。日本のミネラルウォーターよりはるかに安い。しかも、チェコの人々は、ビールを飲む時にはほとんど何も食べない。

「本当にチェコの人はよく飲みます。お茶をする感覚ですね。ランチでビールは当たり前。ちょっと休憩といってはビールですし。私が好きなガンブリヌスというビールは、安いときだと9チェココルナ、日本円で45円ほど。まぁ、飲むなという方が無理です(笑)」

 ホームブルーイングももちろん合法だし、スーパーに行けば、覚えきれないほどのビールが並んでいるのだという。トーマスにしてみれば、ビールは非常に身近なもので、日本で経験のない仕事を探すよりブルワリーになろうとすることはとても自然な欲求なのかも知れなかった。

 そして演奏家の道を選ばない、もう一つの理由があった。それは一時、トーマスが体調を崩したことだった。

「チューバを吹くというのはものすごい重労働なんです。練習だ、レコーディングだ、演奏会だと30kgほどのチューバを持ち運ぶだけでも大変。プロの演奏家ですから、毎日レッスンしないとクォリティが保てません。たとえて言うなら、プロとしてチューバを吹くというのは、何年もの間、毎日毎日、固いゴム風船を何百個も膨らませ続けているようなものなんです」

 身体の負担は相当なものだという。いつまでも演奏できる楽器ではないのかも知れない。ブランクから復帰したあとも、プロとしての厳しい練習が繰り返された。このままチューバ奏者としてやっていくのか。考えどころだと夫婦は思うようになった。

平井のふるさと、海老名でブルワリーになる。

 2015年の夏。二人は、18坪の麦酒工房が高円寺で成功しているというのをネットで見つけて驚いた。こういうふうにコストをかけないやり方ができるのなら、自分たちにも可能性があるんじゃないかと初めて思えたのである。

 高田馬場ビール工房で醸造設備についてアドバイスを受けるトーマス氏。

 それはちょうど、神奈川県・海老名駅の西口開発が始まったころだった。海老名は、JR、小田急、相鉄が乗り入れ、3線併せて約26万人/日が利用する、いわば神奈川のへそにあたる地域だ。平井の生まれ育ったふるさとでもある。

 その西口が再開発され大きく生まれ変わろうとしていた。すでに西口の整備は進み、大型商業ビルが駅と直接結ばれ、人々の流れが生まれている。その商業施設のまわりには大企業の研究開発拠点などもあり、これから建てられるテナントビルもあった。

 二人が試しに“西口テナント”で検索してみると、募集告知が出てきた。ダメ元で応募してみると、テナントのオーナーは農業をやっている地主だった。クラフトや手づくりに少なからず興味をしめしてくれたおかげで、なんとテナント契約が成立してしまったのである。

「ぱたぱたと決まっていったので、凄く不思議で怖いくらいです」

 11年目に入っていたチェコ生活に別れを告げるときが来たのだ。

「最後のチャンスだと思っています。もし上手くいかなくても、まだやり直しのできる年齢だと思っていますし。これを逃したら、ブルワリーになることは叶わないと思って突き進んでいます。これで少しは父親と子どもたちが過ごす時間も長くなるとうれしいですね」

 今、現在は平井と子どもたちが先に日本に移り、トーマスのヴィザ取得と政策金融公庫からの融資(これは実行済み)、醸造免許取得に向けて動いている。ビール工房の設備選定が次の課題だ。物件の鍵を手にできるのは、2016年の11月の予定。そこからブルーパブをつくっていく。

「工房が見えるパブにしたいですね。チェコの居酒屋のような、質素でシンプルなお店のイメージです。チェコにはコーヒーもビールもあって、一人でも家族連れでも、食事でも飲みに来るのでもOKなホスポダという居酒屋があるんですが、そんなアットホームで地域の憩いの場になるような店にしたいです」

 ビールは、トーマスのレシピによるペールエールにIPA、それに大家さんのフルーツを使ったビールなど、4種類を予定している。平井は自家菜園にも挑戦する段取りを進めていて、ルッコラなどを料理の要所に採り入れていきたいという。

「料理は、地元の方から野菜を分けてもらって、大げさにせず。ときどき、チェコ料理のグラーシュ(肉をパプリカの粉で味付けした煮込み料理で茹でパンに絡めて食べる)なんか出そうと思ってます。おいしいですよ」

 海老名ビール。12月オープン予定。オープニングは1パイント500円を実現したいとのことだ。その後も、なるたけチェコのように手軽な値段でビールが楽しめるように工夫したいと夫婦で話し合っているそうだ。

 次回、お店の全容が見えてきたところで、またお話を伺いたい。

(取材:2016年5月17日 敬称略 文責:「ビールと、好奇心。」

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takanobu

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