飯塚孝信

映画を愛し、小説などを書くのを趣味にしています。中年男性の憂鬱な日々など投稿するかもし…

飯塚孝信

映画を愛し、小説などを書くのを趣味にしています。中年男性の憂鬱な日々など投稿するかもしれません。誰も見ないとは思いますけど。

最近の記事

「迷走」

 「迷う事が生きている証」と唄った歌手が居た。悩みの無い人の方が少ないので誰にでも当て嵌まると思うが、私の人生を鑑みると「迷う」よりも「迷走」と言った方が適切に感じる。それは悩み苦しみ「何処に向かって走っているのか分からない」とも言える。「迷走」し続ける私は未だに出口が見えないのだった。暗闇の中で何処かに光がないかと暗中模索して居るだけの人生なのかと思うと、何だか息苦しくさえ成って来る。  迷いの無い人が仮に居たとすると、その人に憧れるかと言えば逆で「迷う事の無い人生など味

    • 「嗜好」

       「嗜好品と呼ばれる物は絶えず新しい商品を提供しなくてはいけない」とゲームメーカーの社長が言って居たのを思い出した。「嗜好品」と言うとゲームの他に何が当て嵌まるか考えると煙草や酒も含まれるだろう。「必需品」ではない物は全て「嗜好品」と言う事も出来るが、「嗜好」する物が何も無くては生きていけないとも思って居る。それは言い換えれば「娯楽の無い生活は潤いが無いのも同じだ」と。  狭義の意味での「嗜好」は「好きな物」とする事が出来るが、広義では「習慣的に用いる物」と言えるだろう。私

      • 「強要」

         「どんなに楽しい事でも強要されてはストレスが溜まる」と思ったのは、ゲーム実況者の動画を観たからだ。一見、楽しそうにゲームをプレイして居る様に見えるが、難易度の高い物だとストレスは溜まるだろう。そう言う私も子供の頃によくテレビゲームをしていたが、クリアー出来ないと苛立たしく成りコントローラーを床に投げ付けた事があった。何もゲームだけの話ではなく、日常の中にも「強要」されると腹立たしく思える事が多々ある。  私が子供の頃には「テレビゲームが脳に与える影響」と言った内容で、学者

        • 「虚言」

           「嘘を付いていると思っているのは正常で、何百回も付いていると本当の事だと思ってしまう」と成れば、それは「虚言」となのではと思えた。「嘘も方便」なる言葉があるので適度の嘘は対人関係を友好にする為には必要だと言える。そう言っている私だが、小説などを書くので如何に上手い嘘を付くかには熟知している。「嘘」と「虚言」の境目は何処にあるのかと疑問に思い考えて書いてみる。書くと成ると具体的な例を上げるが、そこに「嘘」が全く無いとは言い切れない、と警告はするが。  よく温泉に行く。北関東

          「苛立ち」

           「自分の思い通りに成らないと苛立ちを覚える」と言えば誰にでも当て嵌まる事だろうが、終始「苛立ち」を持って居る人と一緒だと、自分も苛立って来る。負の感情に他人を巻き込むのを良しとする人が居たら、その場から逃げ出すのが一番良いが、得てして難しい場合が多い。此処では「苛立ち」の解消方法には触れないので、その様な記事が読みたい人は他に幾らでもあるので、そちらを読む事を勧める。  先ずは個人的な話をすると技術系の職場で働いて居たが、人事異動で事務に回された。その時にストレスから胃潰

          「苛立ち」

          「願望」

           「夢を叶える為に人は生きている」とすれば、それは「願望」だと指摘したくなる。「願望」と言うと、私は何処か「叶わぬ夢」と言ったニュアンスが含まれている様に感じる。「夢」に付いては以前に書いたので、重複した内容になるかも知れない。その時「大きすぎる夢は自分を滅ぼす」と書いたが、「願望」にしても同一視している。ただ「願望」と成ると人間の欲が如実に現れるのではないかと思っている。  「願望」と聞いて私が一番に思い出すのは結婚だ。私は一度も結婚をせずに四十六年間も生きてしまった。こ

          「願望」

          「農村」

           「田舎暮らしは良いですね」と言っている本人は羨ましいとの意味だろうが、私は腹が立つのだった。今現在は北関東の山間に暮らしていて、牧場なども点在しているが「それの何処が良いのか」と思っている。「農村」の閉塞感を知らない人は「長閑で暮らしやすい」との感覚があるのは分かっているが、実情と乖離しているので「そんなに良いと言うなら、実際に暮らしてみろ」と悪態を付きたく成る。愚痴を書いても仕方ない話だが、何故そう思うのか詳しく書いてみたい。  結論めいた事を言うと「農村は存在していな

          「農村」

          「情報」

           「情報は日替わりで伝えられる」と言えば至極当然の様に思えるが、本当にそうだろうか疑問であった。「現代は如何に迅速に、情報を処理するかが求められている」とも言う人も居る。しかし、「情報」とは何を指して言うのだろうか。ネットやテレビ、新聞で毎日「情報」に接して居ると、あまりの情報の多さに嫌気が差して来る人も居るだろう。此処では「情報」を処理する事とは何か、に付いて書くので「情報」の処理能力を上げる内容では無いと始めに書いて置く。  「情弱」なる言葉を最近知ったが、手持ちの辞書

          「情報」

          「想像」

           「想像とは時間の経過により導き出される物」と此処ではそう定義するが、これだけでは理解できない人が出て来るので、何故そう思うのか書いて行く。但し、飽くまでも私が思っている事なので理解するには「時間」が必要な場合があるだろう。出来るだけ具体的な話を書く積りだが、的を得ていないと言われるかも知れない。  批判される事に臆して「書かない」との選択肢もあるが、それは自分の「想像」力の欠如の言い訳として機能するだけだ。それなので以下に書いている内容は、私の「想像」の力を試しているだけ

          「想像」

          「勝負」

           「負けると思って勝負はしない」と至極、当たり前の事だと言えるが、私感としては「負けると思って勝負をする」との気持ちに成る事がある。それは私だけの感覚なのかと疑問に思うのだが「長い人生で勝ち続ける事などない」と言えば納得する人も居るだろう。しかし「勝負」と成ると、どうしてこうも勝つことが至上命令の様に取沙汰れるのだろうか。「勝つ為に手段を選ばない」とするなら、人は何とも傲岸不遜な生き物だと思えて来る。  ギャンブルをする人はよく言う、「あそこに預けてあるだけで何時でも引き出

          「勝負」

          「理解力」

           「貴方の事を理解しています」と言う人を私は信用しない。「理解」とは何を指しているのかと、疑問に思う計りだ。「互いに理解し合い、良き伴侶となります」と結婚式で神父に向かって宣言するのを見聞きした人も居るだろう。その言葉通りなら離婚する人は居なく成るのだが、そう上手くは行かない。熟年離婚などあるので、何十年と一緒に暮らしていても「理解」は出来ないと思って居る。  となると、夫婦ですら「理解」出来ないのだから他人の事を簡単に「理解」したと思うのは傲慢でしかないので、私はその様な

          「理解力」

          「威勢」

           「威勢が良い」と言う時には蔑称として使われる事が多い様に感じる。それは「虚勢」と同義の様に受け取られているからだろう。それと「威勢」の中に「威嚇」の意味を含むのも、原因の一つだ。私自身は「威勢」の良い言葉使いはしない事にしているが、他人が読んでみてどの様に感じるかは不明瞭だ。しかし「威勢」がある言葉とは何かと考える。具体的な例を上げて考察してみると以下の様な事が言えるだろう。  「バナナを食べると便通が良くなる」と実際にテレビの健康促進番組で放送していた。母が真に受けて毎

          「威勢」

          「疑問」

           「全ての疑問は解決される」と言うと宗教の勧誘の様に感じるので、その様な事を口にした事は無い。それ所か日々、疑問に思う事ばかりで、気が付いたら何かしら書いている。結論として「疑問は解決されず、絶えず新たな疑問が浮かんでくる」のであった。それは私が世の中に対して、不平不満があるのが災いしているのだろう。けれども「疑問」が全くなく暮らしている人の方が少ないとも思っている。それなので最近は何に対しても猜疑心を持って観てしまう癖が付いてしまった。  新聞を毎日読んで居るが「疑問」が

          「疑問」

          「自由」

           「自由とは無数の選択肢がある事を言う」と子供の頃に教師から言われたのを思い出した。しかし、もしそうなら大人に成るとは選択肢が少なくなって行く事なのかと、子供ながらに思った。選択肢は何歳に成っても無限に存在しているとの感覚が、今の私にはあったが、要は「やる、やらない」の問題かと思える。それが「自由」なのかと疑問に思えるが、この「自由」なる言葉自体が何を指しているのかと考えてしまう。  「自由」なる言葉は明治時代に海外から持ち込まれた言葉である。英語の翻訳をする為に「Free

          「自由」

          「文化」

           「文化とは国や地域に根付いている風習や催し物」と此処では、そう定義するが「文化」と呼べるのに値する事とは何か、との疑問を私は持ってしまう。「文化」と一口に言っても五年十年で広まった風習を「文化」と呼ぶのに抵抗がある。逆に百年間続いた風習なら「文化」と呼べるのかと言えば「それは違う」と言いたく成ってしまう。忘れられた風習の方が多いとの考えなので、未だに続く「文化」には何かしらの「大人の事情」なる物が含まれていると思っている。  個人的な話なら私は年賀状を書いた事が無い。厳密

          「文化」

          「対応」

           新聞を読んでいたら「大人の対応」の言葉に目が止まった。文脈からすると寛容な「対応」によって事態が打開された、との意味として取れた。しかし、「大人の対応」などは金銭や政治的駆け引きによって解決する物だと私は認識している。逆説的に考えると「子供の対応」の方が解決策を見出すのが簡単だと思っている。ただの言葉の綾であるが、そこにあるのはどんな思考なのかと。少なくとも「対応」する時点で何かしらの問題が発生しているので「大人」と「子供」に分けて表現するのは疑問である。  個人的な体験

          「対応」