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シリーズ日本アナウンサー史⑦年下男性と心中 元祖女子アナ 翠川秋子


1925年6月25日、当時珍しかった洋服に身を包み、髪をショートヘアーに整えた美女が颯爽と東京放送局に現れた。
日本初の女性アナウンサー、翠川秋子である。

荻野流砲術家の家に生まれた彼女は、本名を荻野千代といった。
美術学校を卒業し、絵の教師や女性向け雑誌の編集などの仕事をしていたが、3人の子供を残して銀行員だった夫が他界したため、後藤新平の推薦で東京放送局にやってきた。

当時、男性アナウンサーが担当していた料理番組で「塩を一つまみ」と言わねばならないところを「塩を一つかみ」と言ってしまうなど、ミスを連発していた。また、子供向けの番組でも「語気が強くて聴取者の子供たちが泣く」といった苦情が寄せられていて、女性アナウンサーの登場が渇望されていた。

採用試験で琵琶の弾き語りを披露し、美しい声質と豊かな声量を評価された翠川。沢庵の漬け方や染み抜きの方法などの番組を自ら企画して人気を高めた。
しかし、その派手な振る舞いから局内では風当たりが強く、翠川は次第に「男性社会の犠牲になった」という思いを抱くようになる。
そして翠川のアナウンスメントについて意見した男性職員と口論となったことがきっかけで上司に顔を殴られた。パワハラ行為を通り越した暴行事件で、いまなら大問題になるところだが、被害者の翠川がマイクの前から去らなければならなかった。そういう時代であった。

それから9年後の1935年夏、千葉県坂田海岸で女性の心中遺体が発見される。翠川秋子は年下の男性とともに自らの人生に幕を下ろした。
彼女の宿には「四十年、有耶無耶にして、今朝の露」と書かれた短冊が残されていたという。JOAKのテキストとともに。

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