孔子伝

東洋思想入門 #3 孔子伝 (2/3)

前回は孔子の人生と、論語に書かれている内容との関連性を見ていきました。その中で、巫女の子として生まれたことにも言及しましたが、巫を孔子がどのように位置付けたのか、という点から今回は見ていきます。

以下に引用する二つの箇所では、見方によっては相矛盾する態度を孔子は取っています。

前者では巫を固守すべき伝統として位置付けているのに対して、後者では、神への祈りを肯定しながらも怪力乱心は近づけないという態度が示されます。これはどのように考えれば良いのでしょうか。

端的に言えば、巫の伝統に対して是々非々で臨んだということでしょう。前回すこし言及した「述べて作らず」という態度は巫の伝統として孔子が守ったものです。それによって、巫祝者としてのアイデンティティを守ることが大事であると考えたのでしょう。

しかし、捨て去るべきと考えたものは厳しく排除しようとしたようです。それが「怪力乱心を近づけず」という態度です。こうして、それまで外在化されていなかった伝統という有象無象のものを精神的なものに高めようとしたということのようです。

私たちは「中国」という同じ文化を共有する国家が所与のものとして存在すると考えがちです。しかしそれは、現代における中華人民共和国という国民国家という形象を前提として考えているからではないでしょうか。

現代の中国も多様な民族から構成されているわけであり、当時の中国大陸にも多様な民族がいたことは変わりません。そうした多元的な人々からなる社会に対して、包摂的な存在で統合しようとしたものが伝統の創造であり、創造された伝統を儒教という国教として位置付けて国家統治に活かそうとしたのが漢なのでしょう。

伝統が創造されるものであり、したがって改めて書き直されるという動的な存在でもあります。古き良き伝統を守るという発想も大事なのですが、他方で伝統を生きたものとして発展的に維持するという考え方も大事なのではないでしょうか。

魯での様々な政治活動の後に、五十を過ぎてから魯を亡命することになります。それはすなわち、政治の中心として権力を握ることと、体制に対して反対する活動を行うことの双方から脱却することを意味します。

正(体制)・反(反体制)に対する合(亡命)として、五十を過ぎてからの流浪の旅が意味付けられるのは興味深いですね。先週に述べたことと関連させれば、流浪の旅における弟子たちとの対話によって伝統の創造が結実されたとも考えられるのではないでしょうか。


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