孔子伝

東洋思想入門 #3 孔子伝 (1/3)

誤解を恐れずにいうと、論語を最初に読んで面白いと感じられる箇所は必ずしも多くないのではないでしょうか。少なくとも私にとってはそうでした。

では、なぜ繰り返して論語をたのしみながら読めるのか。おそらくはいくつかの副読本を読み返し、新たに学びを深められる箇所を中心に読み返しているからだと最近思い至りました。

私にとって論語と共に読み返す副読本として三冊あります。最初に取り上げた『ドラッカーと論語』、前回まで扱っていた『身体感覚で論語を読み直す。』、そして今回から扱う『孔子伝』です。

6月14日(金)に梅田のLearning Barでの内容を三回に分けて振り返ります。まず、孔子の生涯をみていきました。

孔子は生涯を通じて、その思想を文字に起こすことをしませんでした。自分自身で著すのではなく、弟子や孫弟子と呼ばれる人々による言行録が論語です。こうした姿勢は、西洋におけるソクラテスと同じと言えるでしょう。

文字にするのではなく、対話をすることに傾注したのが孔子です。弟子たちに問い、対話を通じてイデアの世界を見出そうとしたとも言えるでしょう。問答を繰り返し、言動を示すことで、孔子という生き様が伝記の一つとして残されたものが論語です。

伝記とは、哲人が行なったり言った事実そのものをそのまま伝えるだけではありません。むしろ、哲人の人格が再現され、それを伝承する弟子をはじめとした人々の志向性によってさらに方向付けられることになります。

では、孔子はどのような生い立ちだったのでしょうか。

白川静さんは、孔子が巫女の子供として育ち、卑賤の境遇で育ったという説を取っています。論語の中にもそのような記述もありますし、そのまま受け取るのが自然なのでしょう。

決して裕福でない環境で育ったために、多様な仕事を行い、多様な人々と交流したことが想像されます。だからこそ、過去からの伝統を理解した上で、多くの人々に共感できる思想をまとめ上げることにつながったと理解すれば良いのではないでしょうか。

若い頃は世間で評価されていなくてもいいけれども、四十歳頃にはある程度の評価がないとよろしくない、と孔子は仰っているわけです。しかし、これは本人の人生を肯定するために言っているのでは?と勘ぐってしまいます。

というのも、彼の祖国である魯で内乱が起き、彼が政治の檜舞台で注目され一定の影響力を持ったのが四十を過ぎてからの時期です。それに合わせて四十歳云々と言われても、と考えるのは穿った見方に過ぎるでしょうか。


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