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なんてことのない作業が

朝6時20分に目覚ましが鳴る。眠い身体に鞭を打ち起き上がり、ヨーグルトを食べてスーツに着替え、最寄駅を7時前に出発するJR中央線に乗る。満員電車にぎゅうぎゅう詰めにされながら約40分、ひたすら目を瞑って過ごし、新宿駅に着いたら改札南口に出る。

会社は新宿新都心と呼ばれるエリアにそびえたつ高層ビルのひとつに入っていて、新宿駅地下の西口から伸びる地下道につながった場所にある。その地下道を通った方が早く会社に着くのだけど、なんとなくその道を歩くのが気が進まずに、いつも南口、つまり「地上」に出てから会社に向かっていた。

途中コンビニに寄って缶コーヒーを買い(赤のWONDA)、会社のビル下の喫煙所に着くと缶コーヒーと煙草で(ラッキーストライクを吸っていた)一服。そうして一息ついたら28階のオフィスへ運ぶエレベーターに乗る。オフィスの席に着くのは8時ちょうど。

この朝のルーティンを新卒入社から6年間、月曜日から金曜日まで、ほぼ毎日やっていた。仕事が忙しくて家に帰るのが終電であっても(とはいえほとんど23時過ぎだった)、飲み過ぎて朝起きたら猛烈な二日酔いであっても、毎日欠かさずに繰り返していた。

僕が入社した会社は中堅の「インターネットサービス会社」。サイト制作、インターネット広告、web人材派遣、そんなことを事業とした会社だった。

新卒で配属されたのは、入社の数か月前に立ち上がったばかりの「インターネット広告部」という部署で、もらった名刺には「アカウントエグゼクティブ」と書かれていた。名刺をもらったとき、隣に座る上司に意味を聞けば「ただの『営業』だよ」と、なかば投げやりな声が返ってきた。

そんな風にして僕の社会人生活は始まった。

なぜ僕はこの会社に入ったのか、なぜこの仕事をしたいと思ったのか、はたまたどんな社会人になりたかったのか、今振り返るととんと思い出せない。ひとつ思い出せるとすれば、就活中に見ていたリクナビでこの会社の情報を見ていたら、ミーハーな学生なら引っかかるような、誰もが知っているいくつかの企業の実績が並んでいたくらいだろうか。

だから、というか、もちろんというか、僕の社会人のスタートは、向上心や野心というものはまったく持ち合わせていなかった。

その証左として、入社して半年ほど経った頃、うだつの上がらない僕を呼び出し、営業成績の良い同期を引き合いに出し「あいつはあんなに成績を上げているぞ」と言ってきた上司に対して「いやぁ、すごいですねぇ」と素直に感心する反応を見せた僕に、「おい。そこは悔しがるところだろう?」と溜め息混じりに言った上司の呆れた表情が物語っている。

そんな僕が、6年でその会社を辞め、その後とある旅メディアのプロデューサーを任せられ、5年後にまた新しい立場で仕事をしながら、その傍らでコラムを書いたり、コミュニティに参加していたりと活動の幅が拡がっていることになろうとは、当時の僕は想像だにしていなかった。

とはいえ、当時から変わらないこともある。それは今でも「やりたいこと」「成し遂げたいこと」がないということだ。

時計の針を子どもの頃に戻せば、小学生の頃始めた少年野球も、長嶋茂雄信者だった父親の影響で始めたもので(影響というよりは、いつの間にか野球のユニフォームを着せられ野球チームに入っていた気もする)、僕自身がやりたくて始めたものではなかった。

それでも毎週土日は休むことなく練習をつづけていたら、高学年の頃にはチームで一番脚が速くなり、打率も3割を超え、守備もそこそこできたのでレギュラーは不動のものになっていた。

コーチからは中学生以降も野球を続けるように促された。甲子園、プロ野球という言葉が目の前に並べられていたように思う。ただ小学6年生の頃になり、団体競技に居心地の悪さを感じ始めていた僕は、周りの大人たちの期待を裏切る形で野球をサッパリと辞め、中学校は陸上部に入ることになった。

そこから6年間、中学高校と陸上部で過ごした。学校で一番速くても所詮は井の中の蛙で、地域大会に出れば無名の選手だった。そのあたりに壁の高さを感じつつも「ま。いっか」という位の思い入れで毎日の練習に参加していた。

そんな中、高校2年の頃に入学してきた1年生にあっさり負けたとき、それまで感じたことのない悔しい感情が顔を出した。その悔しさが僕を奮い立たせたのかはわからない。けれど今まで以上に黙々と練習に打ち込み続けることになった。毎朝4時半に起きて朝練、昼休みはウェイトトレーニング、放課後は部員揃って活動、家に帰ってからはビデオで自分のフォームをチェック、そんな文字通り「部活漬け」の日々だった。

気付けば東京都では両手で数えるくらいの選手にはなっていた。でも高校で陸上はサッパリと辞めてしまった。新しくやりたいことができたわけではない。ただ、なんとなく「ここまでかな」と見切りをつけたのだ。

陸上部の顧問からは続けることを薦められたけど続けることができなかった。「陸上をやめたい」というより「もう本気になれない」という気持ちだった気がする。卒業時に顧問から「まだまだ通過点。これからこれから」と書かれた升(なぜ升だったのだろう)をもらったことは今でもハッキリと憶えている。

時計の針を社会人に戻す。僕は、先述したとおり新人の頃は野心も目標もないスタートだったのだけれど、日々の業務を淡々とつづけていたら不思議と評価されるようになってきた。それは上司よりも先にお客さんからから評価が上がってきた。

なぜそうなったのか、どこかで仕入れたテクニックを駆使したわけではない。ただ、上司から毎日のように(罵倒を伴って)指導されたことを忠実にこなしていたら、お客さん側の方から声がかかるようになったのだ。

広告代理店の中では無名の会社にも関わらず、誰もが知っている代理店とコンペになり「平山さんを信頼するよ」と勝てることも増えてきた。5年が経つ頃には社内でも同期の中ではトップクラスの評価だった。

ただ、そこでまた飽き性が顔を出してきた。以前お客さんだった方から声をかけてもらい、その人についていく形で出版社に転職することになった。その時も新しいメディアを立ち上げてみたい、という思いはまったくなかった。ただなんとなく面白そう、という感覚だけで動いたように思う。

転職しても1年くらいは自分の仕事が手元にはなくフラフラしていた。それでも代理店の頃の「営業力」が働いたのか、社内でとあるプレゼンをしたところ、それがそのまま社長の目に留まり、新しく立ち上げるwebメディアのプロデュースをさせてもらうことになった。

嬉しさはあった。とは言え右も左もわからない。どうしようと悩ませながら社内外問わず歩き回っていたら、外に答えがあることに気付いた。ひたすら外に出向き話を聞いては、新しいアイデアを取り入れながらメディア運営をつづけた。

頼れる人ができ、ひたすら頼り、教えてもらったことを自分の言葉で届けるようになっていたら、数年経った頃にはメディアそのものが大きくなってきた。そしていろんなところから「話を聞きたい」と声がかかる状態になっていた。そしてその人たちと素晴らしくあたたかい関係を築くことができるようになった。それは今でも続いていて僕を支える足場になってくれている。

そしてメディアを起ち上げて5年経った頃、「そろそろかな」という、これまた自分勝手な感覚に任せて転職することになった。転職を決めたのは、先述した「頼れる人たち」の助言のおかげだ。その方たちの後押しが、今の自分の立ち位置を作ってくれることになった。

転職して1年近く経とうとしているが、正直言えばまったく手応えがない状況が続いている。とはいえ、なんとなく足がかりになりそうなことは始められている。今はその始められたことを温めながら次を楽しみに待っている状況と言える。楽しみにしていてほしい(自分に言っている)。

随分と長くなりました。

過去を振り返ってみてわかることは、僕の人生は目標や夢というものからは縁遠く、「強い想い」よりも淡々と繰り返してきた「作業」が次の場所へ導いてくれたということです

淡々とつづけていたら、いつの間にか新しい「武器」が手に入っていて、その武器がいつの間にか次の場所でも役に立っている、その繰り返しが「今」の僕を形成しているような、そんなロールプレイイングゲームをずっとしてきているように思います(ゲームはやらないから喩えが正しいかはわからないけれど)。

勘違いしないでほしいのは、夢や強い想いを否定するわけでも、ひとつのことを続けている人を揶揄するわけでもないということです。僕には体力も胆力もない。だから夢をもって進んでいる人や、ひとつのことを生涯かけてずっと続けられている人に嫉妬に近いような感覚も強くあります。どうやったらあんな想いでい続けられるのだろうと、畏敬に近い念すらあるんです。

ただその反面、夢や目標がない人も多くいることを知っています。そういう人から相談されることも増えてきました。「どうやったらやりがいをもって働けますか?」と。ただ、僕として困ってしまうのは、ここまで長い文字を割いて伝えたように、僕自身がやりたいことや強い想いがあってこの場所に立っているというわけではないということです。

でもね。ひとつ言えることがあるとすれば、つづけることでしか見えないことがあって、同じようにやめることでしかわからないこともあるということです。社会人1年目の僕を通して、同じような年齢にいる人にかけられる言葉はこんなことのような気がします。

「それってなにも言ってないことと同じではないか!」なんて怒らないでください。大丈夫です。あなたがやめたくなったとき、何か違うことを始めてみたいと思ったときに、この言葉を思い出してくれればきっと僕の言いたいことはわかると思います。

僕自身、いつも岐路に立ったときにはこの言葉が頭を巡っては「もう少し頑張ろう」「もういっか」の決断をしているのです。

そしてそういう決断は大体そのあと振り返ればいい結果を招いてくれています。とはいえ反対の決断をした僕の未来を知ることなどできないので、そのときの決断がいい結果なのかどうかなんてわからないのですが。まぁ。だから、そういうことです。

もう一度言いますね。つづけることでしか見えないことがあって、同じようにやめることでしかわからないこともあるということです。

そうそう。これを書きながらひとつ思い出深い曲が浮かんだので最後にその歌で締めたいと思います。

なんてことのない作業が 
回り回り回り回って
今僕の目の前の人の
笑い顔を作ってゆく
そんな確かな生き甲斐が 
日常に彩りを加える
モノクロの僕の毎日に
頬が染まる 温かなピンク
増やしていく
きれいな彩り
『彩り』/Mr.Children


ありがとうございます。 サポートって言葉、良いですね。応援でもあって救済でもある。いただいたサポートは、誰かを引き立てたたり護ったりすることにつながるモノ・コトに費やしていきます。そしてまたnoteでそのことについて書いていければと。