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距離感が癒すこと

一度だけ飲んだことのある方からメッセージが届きました。その内容は、飲み会中に僕がしたアドバイスを受けて、そのあと実際に行動に出て、新しいスタートを切ることができたという報告でした。

「その節はありがとうございました!」と言ってもらえれば僕も嬉しいのだけど(酔っ払う直前だったから話したことは憶えてる)、「頑張ってくださいね!」と返信したあと、ふと不思議に思ったんです。

その方は僕と飲む前にいろんな人に相談もして、その間に無数のアドバイスの積み重ねがあって、僕の言葉はそのうちのひとつであるという前提に立ったとして、それでも、ほぼ初対面の人の言葉に背中を押されることなんてあるの だろうか、と。

そう思ったのだけど、あ。僕自身そうじゃん、と思ったわけです。

僕が今この職場で働いているのも、一度しか会ったことのない人に相談した時にもらったアドバイスなのですから(今では親友と呼べる人ですけど)。

彼はその飲み会で、「あ、あの会社なら平山さんっぽいんじゃないんですか?いいじゃないですか?受けちゃいましょ!ナイスサウナ!」と完全に酔ったノリでアドバイスしてくれました。

でもなぜか僕はその言葉を「真に受けた」たんですよね。「あぁ、じゃあ受けてみよう」と酔った頭で決心して、帰宅してエントリーフォームを立ち上げて、そしてそのまま、今に至るわけです。

おそらく、近い友人や先輩や上司に相談して、同じ答えが返ってきたら「いやいや、まじめに聞いてます?」と怒ってしまっていたでしょう。

これまでの関係性や、その人の性格など、当人同士の中にある「理解」という名の「膜」が、言葉そのものを遠回りさせるようなことがあるようです。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がありますが、まぁ、つまりはそうゆうことです。

「何を言ったかではなく、誰が言ったかだ」なんて言葉もあるように、その人との距離感によって、同じ言葉でも意味を変えて届くようなことはあるようです。

不思議ですよね。近い人の言葉は遠回りして、遠い人の言葉は近道するなんて。でも、そうゆうものなんだと思います。だから人間関係は脆くも愛おしいと感じるんです。

ここ数日、いろんなことが世の中でありました。目を覆いたくなるような凄惨な事件、旧態依然とした仕組みが瓦解するような出来事、人の気持ちを蔑ろにしたような出来事…

なかなか明けない梅雨に苛立つように、そんな暗い出来事に対して、それぞれの人が、それぞれの心の中で感じたことや考えを吐露する言葉がタイムラインに溢れては流れていきました(今も流れてきます)。

僕は、「そんなことは間違っている」と表明する人も、「こんな世の中でいいのでしょうか?」と問う言葉にも同意をする準備はできています。

でも、僕はそんな言葉を眺めていて「危うい」と感じるんです。そう感じる理由はまさに「距離感」にあります。タイムラインに流れてくる言葉は、その距離が遠いが故に「膜」を通さず、直接心に届いてきてしまうんです。

膜を通さない言葉は、心に届くのが早い。だから、つい脊髄反射的に答えを口に出してしまうようになる。「その通りだ!」「間違ってる!」と、考える時間を置かずに出てきたそんな言葉たちは、より強さと苛立ちを纏って、また違う「遠い人」にダイレクトに届いてしまう。

僕はそうゆうのを見ているのが辛い。いい歳こいて「辛い」とか言うなって話なんですけど、ただ辛いんです。

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そんな日だから、というわけでもないんですけど、大好きな下北沢の「珉亭」に行ってきたんです。

頼むのは毎回同じ。「ラーチャン」(ラーメンとチャーハン)と、キリンラガービール。

いろんなことがあって、タイムラインを眺めるのも辛くて、ケータイをポケットにしまって店内を見渡したら「あぁ」と思ったんです。「ここはいつもと同じだ」って。

いつもと同じ器。いつもと同じ器の重なる音。いつもと同じラーメンを作る人の眉間の皺。いつもと同じラーメンを並べる厨房の台の傾き。いつもと同じチャーハンのピンク。いつもと同じラガーの苦味。いつもと同じラーメンの細さ。いつもと同じだけのテーブルコショウの振りかける量(これは僕次第だな)。

どんな時も「同じ距離感」でいてくれる場所があること。その距離感は、癒し。僕は今日ほどその距離感をありがたいと思ったことはないかもしれない。

そんなことに気づき、いつもと同じ1500円を払って店を出て、看板を振り返ったら少し泣きそうになった。だから、思わず写真を撮りました。

正しい距離感なんてない。でもね、癒される距離感というのはあると思うんです。そういう距離感に気づくことができたなら、なるたけ手放さない方がいいと思うんです。

ありがとうございます。 サポートって言葉、良いですね。応援でもあって救済でもある。いただいたサポートは、誰かを引き立てたたり護ったりすることにつながるモノ・コトに費やしていきます。そしてまたnoteでそのことについて書いていければと。