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陽気な悪友が地球を救うことはない #あの夏に乾杯

二人組の銀行強盗はあまり好ましくない。二人で顔を突き合わせていれば、いずれどちらかが癇癪を起こすに決まっ ている。縁起も悪い。たとえば、ブッチとサンダンスは銃を持った保安官たちに包囲されたし、トムとジェリーは仲が良くても喧嘩 する。

三人組はそれに比べれば悪くない。三本の矢。文殊の知恵。悪くないが、最適でもない。三角形は安定しているが、逆さにするとアンバランスだ。

それに、三人乗りの車はあまり見かけない。逃走車に三人乗るのも四人乗るのも同じならば、四人のほうが良い。五人だと窮屈だ。
というわけで銀行強盗は四人いる。
出典:『陽気なギャングが地球を回す』

「陸の孤島」と揶揄された僕の出身大学は、都内の外れ、山奥の動物園の脇にある。大袈裟に言えばひとつの山全体が大学のキャンパスになっていて、最寄りの駅から長い山道を登らないと辿りつけない場所にある(モノレールができて解消した)。

そんな大学の中にあるカフェの名前が「フラット」というのは洒落なのだろうか、嫌味なのだろうか、それとも諦めにも似た祈りなのだろうか、とにもかくにも、僕ら4人はいつもそのカフェに集まっては大学生特有の「のぺっとした」時間を怠惰に過ごしていた。

あれからもう15年近く経とうとしている。それでもいまだに4人のLINEのグループがあり、時折(年に1回くらい)誰かが「飲もうぜ」と連絡をしては集まり、いつかの「のぺっとした」時間の延長戦をしている。

なぜこの4人が大学在学中からずっとつるみ、いまだに集まっているのかはわからない。いろんな仲間はいた。そのうちの何人かは今でもたまに連絡をくれたり会ったりしている。それでもこの4人だけは示し合わせたようにいつも4人で集まり、いまだにそのフォーマットは続いている。

そして付け加えるなら、大学卒業後に集まるのは決まっていつも夏なのだ。

だからか、彼らと過ごした大学生の頃を振り返ると夏の景色が浮かぶ。でもそれは気持ちのいい浜風に打たれている砂浜でもなければ、心酔するロックミュージシャンが歌うフェスでもない。

思い浮かぶ景色は、いつも集まっていた大学内のカフェ「フラット」だ。

その頃の僕らは大抵トランプを持ち寄っては、街で配られる広告の入ったウチワを仰ぎながら「大貧民」をしていた。罰ゲームはいつでも「あの子」の暴露話など下世話な話(とてもじゃないがここには書けない)で、そもそもそれは罰ゲームですらなかった。ただ誰かに打ち明け話をしたい「きっかけ」をトランプに託していただけだった。

飲んでいたのはアイスコーヒーだったかコーラだったかはとんと思い出せない。白いテーブルの上に置かれたトランプと、馬鹿笑いしていた笑い声と「与太話」だけが記憶に残っている。

要は彼らは、世の中的な言葉に置き換えるならばいわゆる「悪友」であり、僕にとって言えば怠惰な大学生活を彩ってくれた「お手本」だった。

今年も例に漏れず、僕ら4人は夏の終わりに集合した。今では全員が既婚者で、僕を除く3人が2人のお子さんを抱えるパパになっている。

一番芸人に近かったD(いまだに彼以上に面白い男を見たことがない)は、自身のキャラクターの真反対にあるような医療会社でMRをしている。一番頭が良かったY(おそらく彼のノートがなければ残りの3人は卒業できなかった)は、音楽好きが高じてとある音楽サービスで働いている。一番モテたJ(速水もこみちに似ている)は、モテる自身の宿命を背負うかのように大手航空会社でパイロットをしている。そして僕はと言えば、フラフラとサラリーマンをする傍らで文章を書いたりしている。

そんな連中だ。「今」の話をしても噛み合うわけがない。だから決まって話はあの夏の「焼き直し」になる。今年の夏も「あの夏」と同じように下世話な話で盛り上がりゲラゲラ笑って過ごした。

とは言え時の流れは4人に平等に、しっかり15年分流れているわけで、当然ながら「今」の状況確認は行われる。

4人の現情報告は、シンプルに言ってしまえば「なかなか大変だけど楽しんでるよ」ということなのだが、僕は時折挟みこまれるこの話が好きだ。話を聞いていると、不思議と悪友の「良かった一面」がフラッシュバックされるのだ。

お調子者のDは、僕に煙草の味を覚えさせた悪い奴だ。あれは大学3年の夏。当時付き合っていた「気分屋」の彼女から3回目の別れを切り出され落ち込んでいた時、彼は「まぁ、とりあえずさ」と「ラッキーストライク」を差し出してきた。

周りの友人は「もうそんな子は忘れなさい」とアドバイスをくれる中、慣れない煙草にむせた僕をからかいながら彼は「でも俺はさ、あんな風に真剣に好きになってるお前が好きなんだぜ」って言ってくれた。

そして「貸すよ」と言って渡してくれたCDに入ってた曲を聴いて、僕はそのアーティストが好きになったんだっけ。

一番頭の良かったYとは、いつも音楽の話をしていた。彼が薦める音楽や小説(読書家でもある)は片っ端から聴き、読んだ気がする。

とある授業の前の休み時間、僕は発売されたばかりのミスチルのCDを彼に手渡した。興奮気味に「聴いて」と。すぐに彼は普段から持ち歩いてるCDウォークマンで再生し始めた。冒頭の曲のサビを聴き終わると目を見開き教室中に響く声で「全員これを聴け!」と叫んだ。

好きなものを同じ熱量で分かち合う喜びを知ったのはその時がはじめてだったと思う。

イケメンのJはとにかく一番チャラい見た目なのに一番男気のある奴だ。僕が38度の高熱をおして大学に行った時、体調の悪さにいち早く気付いた彼は、「おい。何してんだよ。早く家帰って寝ろ!」と叱りつけて僕を家に帰すような男だった。

誰かが困ってると身体がすぐに動いてしまう彼は、浦安に実家暮らしだった頃に起きた大震災の夜、帰宅難民になり某ランドの前で困り果てている人が集まっていることを知るやいなや、車で駅に向かい困った人たちに声をかけては、車に乗せて家まで送り届けることを繰り返した。

優しさは、遠くの人に言葉ひとつ投げかけるものではなくて、目の前の人に身ひとつで差し出すものだと教えてくれたのは彼だった。

僕らは中年と呼ばれる年齢に差し掛かった。飲み会を開いても、二次会でカラオケを熱唱する力は残っていない。それでもお約束のように今回も二次会でカラオケに行った。

ビールはもうきついからと、アイスコーヒーをすすりながらポツポツと話しては、時折思い出したようにあの頃の歌を数曲歌って解散した。

帰り道、JからLINEグループにメッセージが入った。

Please put your life in the hands
(ただお前の人生は任せちゃいけない)

OASISの名曲『Don't Look Back In Anger』の一節だ。

大学の頃から何十回とカラオケに行っては、ほとんどのラストを飾ってきたのがこの歌だ。今回のカラオケもこの歌の大合唱でお開きとなったのだけど、今まで歌詞の意味なんて知らなかったし知ろうとも思わなかった。

送られてきた歌詞を読んでこみ上げるものがあった。そして何度目かの想いが頭を過ぎった。「あぁ、やっぱり俺はお前らが好きだわ」。

「悪友」の良いところは、「今」を少しだけないがしろにできるところだ。いつだって人を判断できるものは、関係の「蓄積」でしかないということを教えてくれる。「今がダメでも知ってるぜ、俺はお前のいいところ」という甘えを許してくれる関係だ。

そして同時に毎回気付くのだ。こんな風につながっていられる関係は安心を覚えるということに。それはまるで夏の終わり、涼しさを纏った夜風のような心地よさがあるということに。

陽気な悪友たちは世界を救うことはない。でも僕の世界に限って言えばそこはシェルターであり、光だ。

来年の夏もまた、「あの夏」を肴に積み上げてきた夏を分かち合うのだろう。あの夏はこの夏の肥やしになり、この夏はいつかの夏への伏線になる。そんなことを願いつつ。

さよなら、2019年、夏。



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