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梅雨時の鬱陶しさの中で

人のために出来ることはあっても
人のために生きることができない
『暴れだす』/ウルフルズ

6月は頭が追いつかないほど慌ただしかった。地方出張が2件、研修が1件、登壇が3件…あれ。こうして並べてみると慌ただしくないように見える。

感じる慌ただしさとか忙しさは、溜め息をつきたくなるほど気持ちが落ち込むけど、こうして「書き出して」みると案外大したことはないな、ということが結構ある。単にせっかちな性格なのだ。

とはいえ、新しいこと、慣れないこと続きであたふたしたのはたしかだ。でも新しいことを始めるときの発見のトキメキや(久々に使った)、大きなプロジェクトが終わったときに仲間と分け合う喜びもひとしおなわけで。

振り返って、ネガティブな面を挙げれば、眠い、とか胃が痛い、とか、二日酔いが抜けない、とかそんな程度のことで、実際は良いことづくめだったとも言えるわけだ。

なんの話をしたいんだっけ。

そうそう、冒頭のウルフルズの歌の引用した歌詞がとても好きなんですね。それで、大抵こうゆう慌ただしい中にこの言葉が浮かんでくるんです。

僕の場合、慌ただしいと感じるのは、「接する人の量が多い」ということにあるようです。

6月は新しい場所に行って、新しい方と接点を持ったり、登壇をすることで一気に数十人の人と(間接的に)会話をすることになったりと、結構多くの人と接しました。

そういう接点の中には、共鳴する人と話が盛り上がったり、僕の話に大きく頷いてくれる人がいたり、大きなプロジェクトを一緒にやってくれた仲間たちと肩をたたきあったりと、ざっくり言ってしまえば「ありがたい」と感じることもたくさんありました。

そんなありがたさを感じる一方で、なんとなく、ずーっと「遠い」んです。目の前にある接点のはずなのに、なぜか慌ただしさの中では「遠い」と感じてしまう。

こういうときに出てしまう悪い癖が、「近くの人」の声を求めてしまうことなんです。僕が発散した言葉の熱量を回収するように、近くの人の生の声を求めてしまう。

たとえるならボールを投げるようなことかもしれない。遠くにボールを投げるような言葉は、拾ってもらうことを前提にしてないから、たまに拾ってもらうととても嬉しい。でも、近くへ投げたボールは相手が捕球している姿が見える分、投げ返ってくることを期待してしまう。そのやりとりがしたくて近くの人へボールを投げかけて(それもかなり強いボールを)しまう。

慌ただしい中で接してきた「遠い」人との会話の中にもしっかりと熱量はあるはずなのに、それだけで満足ができなくなってしまう。不思議だ。

で、そんな慌ただしさの中に感じる「遠さ」や、身近な人を困らせる自分の辟易とする癖に「少しのリグレットと罪」を感じてあの歌詞が浮かぶのかもしれない。

僕は今、なにか人のためにできているかもしれないけど、人のためには僕は生きられないんだなって。

こんな話を久々のnoteに書くことなのだろうか。ここまで書いてげんなりし始めている…

でも考えてみたら当たり前なんですよね。誰もが自分の生を生きているわけで、誰かのために(恋愛中ならまだしも)生きているわけではない。でも時折、その寂しさが僕を途方に暮れさせる。

昨日は夕暮れがとてもきれいでした。オフィスにいる人たちがこぞって窓際に行って写真を撮りに行ってる姿を見て、唐突に「あぁ。みんな一緒なんだな」って安心感に似たような温かさに包まれたんです。

人のためにできること、とか、人のために生きること、とか、そもそも「人のため」と小難しいことを考えていた自分がちっぽけに見えたんです。「必要とされたい」という欲は、それはそれでいいじゃん、て。そんなに人は「変わらない」んだよって。

というわけで今日も、好きな人と好きな酒を飲みに行くことにするよ。ひょっとしたら読んでくれた方に声をかけるかもしれません。

この梅雨が明けたら、一緒にビールを飲みに行きませんか?

ありがとうございます。 サポートって言葉、良いですね。応援でもあって救済でもある。いただいたサポートは、誰かを引き立てたたり護ったりすることにつながるモノ・コトに費やしていきます。そしてまたnoteでそのことについて書いていければと。