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律儀であること

先日飲んでいる席で、仲良くしている方から「転職することにしました」といきなり目の前で報告されました。以前そういった進退についての相談は受けていたので「やっぱり」と思うと同時に素直に「おめでとう」となりました。帰り道、メールで「みなさんに知れ渡る前に平山さんには報告しようと思って」とわざわざ連絡をくれました。

友人から突然「少し会いませんか?」の連絡。他愛もない会話で1時間半程度話した後、帰り間際に「結婚することにしました」と言われました。そのときは動転してしまったのだけど、帰り道じんわり嬉しくなってきました。単純に友人の幸せが嬉しいというのもあるし、おそらく僕に直接伝えるために場を設けてくれたんだろうな、という気遣いが嬉しかったんだと思います。

会社の後輩が、僕のオーダーに四苦八苦してしまいその日が納期の仕事がなかなか終わりませんでした。僕のオーダーが悪かったこともあり申し訳ない気分もあり、夜遅くまで一緒に作業をしました。なんとかその案件は片付けることができたのですが、その帰り道に後輩からは仕事に付き合ってくれてありがとうございましたという感謝とともに「もっとこうしていきたい」と前向きなメールをいただきました。

これらの話に共通するのは「律儀」です。
律儀とは、義理がたいこと、実直なことと辞書にはあります。

仕事柄いろんな能力をもった人と関わります。
カメラが得意な人、書くことが得意な人、デザインが得意な人、進行管理が得意な人、人を説得することが得意な人...

それぞれの能力にはもちろん個人差があります。その個人差が価格なんかにも反映されます。当然、現時点では求めている能力に足りないこともありますが、僕がその能力部分と同じかそれ以上に見ているのが先述したような「律儀さ」にあります。いやむしろ、能力を向上させるものこそ「律儀さ」にあるように思います。律儀さひとつある人とない人では長い目で見たときに雲泥の差が出るように思うのです。

僕が広告代理店の営業だったころ、とにもかくにも徹底されたのが「レスポンスの早さ」でした。メールは1時間以内に返信しろ。メールで伝わらないものはメールの直後に電話で補足しろ。営業のスキル、広告の知識云々よりもこのことを口酸っぱく言われました。

当時は理由があまりわかってなかったように思います。ただ、今だとわかります。これらは「律儀さ」を演出するためのテクニックだったんですね。

結果として、スキルも知識もない僕が、大手代理店から切り替えることができたときに、担当者の方から言われた決定理由は「熱量があって信頼できると思ったから」でした。僕としては上司に言われた通り「こなしていた」だけですが、こうして人にしっかりと「届く」ことはあるようです。

「返報性の法則」というものがあります。細かいことは端折りますが(『影響力の武器』という名著に詳しいです)人は与えてもらったことを同等かそれ以上で返すように本能的にしてしまう、というものです。「ギバーであれ」という世の中の声は、実はこういう効果を生むからだと(少し打算的なきらいはありますが)いうのもあると思っています。

翻って、僕自身「律儀さ」をもって向き合っている人がいるだろうかと考えました。

数人の顔がすぐに浮かびました。

ではなぜその人たちに「律儀に」向き合っている(もしくは向き合っていきたい)と思えたのか。答えは簡単でした。彼ら彼女たちに対して僕自身が本音で話ができているからであり、彼ら彼女らも僕に対して(少なくとも表面的には)同じような態度でいつも接しているからです。

当たり前と言えば当たり前なんですけどね。

なぜこんなことを言いたくなったのだろうと言うと、冒頭のような体験が立て続けに起こって、「あぁやはりこういう関係は清々しくていいな」と思ったのと、まわりを見渡してみると表面上はとても丁寧なのだけど律儀さに欠ける人や律儀を行使したいと思えない(変な日本語だな)人を多く見かけるようになったのと、僕自身を省みて、確かに年齢を重ねるほどこうした態度でいる人が減っていってしまうなぁと思ったからなんですね。

まとめます。

律儀さは人の成長を早めます。そして律儀さはある程度はテクニックでカバーできるものです。そして(ここが肝心なのだけど)律儀さの根っこにあるシンプルなことを年齢を重ねるほど置いてけぼりになるので注意が必要、ということです。

それでは、今日もクイックレスポンスで邁進してまいります。


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