いない 19 お父さんそういうのはわからないから

(※性暴力の描写があります)(つらそうな方はどうぞ無理せず)

 肘から手首までの範囲を、二つに割った上半分は、服の袖に隠れる。

 私が初めて彫刻刀で、自分の腕の皮膚を削った時、思ったよりも出血した。
 私の腕が、肉と皮で塞がるまで、予想より時間がかかった。

 授業中や休み時間に、私は、シャープペンシルの芯を出さない先端の銀色の部分や、コンパスの針で、がりがりと、私の腕を引っ掻いた。

 私(たち)は、模索していた。生活に支障が出ない範囲で自分の肉を開(あ)けるには、どの道具を、どう使ったら良いだろう。
 はさみ。コンパス。カッター。彫刻刀はだめ。思ったよりも滑るから。
 包丁もだめ。学校に持って行かれないし、大袈裟すぎる。
 三角定規は、ミミズ腫れくらいにしかならない。もっと別の。もっと。もっと。

 私が教卓に頭をぶつけたのと、同じ日か、別の日かは、覚えていない。
 覚えているのは、私が、祖父の家の夕方の洋間の長い方のソファの隅に埋まり、折り畳んだ自分の腿に、自分の胸部を押し付けるような座り方で、クッションを抱え込んでいたこと。

 父の体温が近くにあり、父が私に、何か、
 「どうしたの。」「黙っていたら、わからないよ。」「教えてくれたら、お父さんも考えるから。」
 というような、3つか4つかの言葉を、かけてくれたこと。

 私が、首を横に振ったこと。
 私が、父の横にある1人掛けのソファへ、クッションを投げたこと。
 
 父が、もう何度か言葉をかけて、その場からいなくなったこと。
 洋間の出窓の向こう側、庭が夜になってゆくこと。
 父は、日曜日の夜に、
 「じゃあ、お父さんは自衛隊に帰るけど、**、お家のことを、頼んだよ。」
 と、いつもの言葉を、私に言い、帰って行ったこと。

 父は、私について、日曜の夜には「機嫌を直した」と言った。
 「お父さん仕事だし、**は、もう大丈夫だね。」

 父が言うなら、そうなのだろう。私は「機嫌を直して」、いつもの通り、夜の庭まで、父を見送りに行った。私(たち)は、
 「お父さん、いってらっしゃい。おうちのことは大丈夫だよ。気をつけてね。無理しないでね。」
 という、いつも私の口が出している音を出した。

 私(たち)は、父の官舎へ泊まりに行ったことがある。
 「遊びに来るかい。」と、父が、呼んでくれたから。
 
 私は脱衣所で服を脱ぎながら、気がついた。私は、
 「お父さん。」
 と、父を呼んだ。

 父は、父の官舎の台所の方から、
 「なあにー。」
 と、小さな声で、私に言った。

 私は、目の前に掛けられている、父のタオルを見ながら、
 「お父さんも、おっぱい揉む?」
 と、父に聞いた。
 父は黙った。もう少し黙った。私は、
 「マッサージしたら、よくなるって。」
 と、父に説明を、「してあげた」。

 足音がした。父の足音は、祖母や伯父のように、足裏全体で床を叩かない。滑るように、体重が降りる。
 父は、脱衣所の近くの洗濯機まで歩いてきて、壁の向こうから、
 「お父さん、そういうのは、わからないから、保健の先生に聞いてね。」
 と、私に言った。

 私は、
 「はあい。」
 と、父に言った。

 まだ祖父の家にはなかった、父の官舎のシャワーの操作に、手間取りながら、私は、首を傾げた。

 「喜びそうな人」に、「さわる?」と、私が聞くと、上級生の、いつも私に足払いをして転ばせてくるお兄さんとか。
 同級生の女の子は「さわる?」と私が聞かなくても、トイレの個室で私の乳輪の大きさを測ったり、「さわらせて」って、私の胸肉を触ったり伸ばしたりするけれど。
 おじいちゃんも、触る。触るというか、毎日せっせと揉んでいる。
 伯父さんは、直接はあまり触らないけれど、
 「やっぱり女の子は、お尻が丸くなってきていいね。おっぱいも出てきたんじゃない? 今、乳首どうなってるの?」
 と、私が台所で料理をしている後ろから、晩酌しながら、言うけれど。
 お父さんは、いいんだろうか。いいというのは、父は、触りたくないんだろうか。

 父は、私たちを祖父の家まで送り届け、「とんぼ帰りだ。」と、笑って言った。私も、笑う顔をした。父は、
 「じゃあ、お父さんは帰るけど、**。お家のことは頼んだよ。」
 と、私に言い、帰って行った。

 面倒だから。
 私は、小学4年生から5年生の間のどこかで、新しい言葉を、機械に入れた。
 体? の、機械みたいな部分。私(たち)が、覚えた言葉を、入れる場所。

 「面倒だから。」「何でもいいよ。」「それで気が済むなら、なんでもいいよ。」
 いくつかは、父の、よく使う言葉でもあった。

 父はいつでも冷静に、あきらめの泉みたいなところに、膝まで浸かっているようでした。

 父は、牧羊犬のように賢く、穏やかで、能力が高い人でした。 
 父は、何か困ったことが起きても、困ったこととは、たとえば、農機具小屋からボヤが出るとか、急に何かの修理が必要になるとか、そういう時も、静かに、体を動かして、速やかな対処にあたりました。

 同じ状況において、私の祖母や伯父は、いったん、激怒や、我が身の不幸を呪う段階を、挟みました。
 祖母や伯父は、自分の望まないことが起きると、壁を蹴ったり、物を投げたり、何か母音で叫んだり、なんでおばあちゃんばっかりこんなロクでもないことばっかりで。今すぐ死ねばいいとお前も思っているんだろう。と私の首を絞めたり、そのような段階を経て、どうしたらいいのだと、改めて、怒り出しました。

 父と祖父には、不足の事態が起こった際に、激怒や、我が身の不幸を呪う段階が、ありませんでした。
 いや、祖父には、反射の激怒がありましたが、祖父の場合は、激怒しながらも、同時に対処が動きました。

 父には、激怒も、ため息も、ありませんでした。何の準備段階もありませんでした。
 父は、不足の事態、即、淡々と、対処しました。

 父は、
 「まあ、しょうがないよね。」「そういうこともあるよね。」「大丈夫だよ。」「何とかなるよ。」「それで気が済むならいいよ。」
 と、よく、言いました。
 
 父にとっては、生きていることは全て、理不尽である状態が普通のように見えました。