いない 18 もうできない

 私、と呼んでいるこれは、「みんな」が帰った放課後、教室の一番前にある教卓の角に、
 「もうできない。わからない。」
 と言いながら、自分の頭をぶつけていたらしい。

 らしいというのは、私は、自分が教卓に頭をぶつけている感じは記録しているが、その間、声で音を出していた覚えが、ないからだ。
 私を見つけた当時の「先生」が、教えてくれた。
 「先生」は、私に
 「どうしたの。」
 と、聞いたような気がする。

 私(たち)は、多分、首を横に振った。私の喉は、泣くせいで狭くなり、吐きそうだった。
 「先生」は、私を、教室の窓際まで連れてゆき、
 「何かあったの。」
 と、聞いた気がする。

 私(たち)は、
 「何もありません。」
 と、言った気がする。
 私は、自分の顔を、窓際に尻をつけて座る自分の両膝の間にしまった。
 何もない。本当に、何もなかった。

 「先生」は、私の隣に座り、
 「何か、困ったことがあるの。」
 と、私に、聞いた気がする。

 私(たち)は、
 「いいえ。」
 と言ったか、もしくは、黙って首を横に振った気がする。

 私は、人が、何を言っているのか、全くわからない。この時も。
 困った? こと? とは? 何か? とは? ある? とは? 何だ。

 この時、私に、
 「先生が何を言っているのかわかりません」
 という言葉は、なかった。それを言うと、顔を殴打される。

 私は、保育園の時に学んだ。私は、言わないことを記録した。
 だから、この時も私は、「先生」が何を言っているのか、全くわかっていないのに、「いいえ。」とか、首を振るとか、そのような反応を示した。
 無視もだめ。

 信号と同じ。赤は止まれ。青は進め。おはよう、には、おはよう。何か言われたら、「うん、そうだね」。無視は、だめ。
 自分が教卓に頭をぶつけているのを「先生」に見咎められ、誰もいない教室の隅に、2人で座らされた時は?
 ここにおいて押すべき動作のボタンを、私は、持っていなかった。

 私は、困っていない。
 「先生」に、そう言いたかった。かどうかは、わからない。

 私、と呼んでいるこれが顔を上げたら、これの顎を水が滴り、これの履いていたズボンの膝が濡れた。
 これの口は、開いていた。この穴から出るべき言葉は、ひとつもない。私は、言葉がわからない。

 先生、何もありません。困っていません。帰ります。
 という言葉は、なかった。

 「先生」は、私(たち)に何か、たとえば、
 「先生もたまにつらい日があるけれど」
 と、何か、先生のつらい話をした。

 それから、
 「大丈夫。**ちゃんは、しっかりしていて、頑張り屋さんだから。」
 というようなことを、私に言った。

 私は、「先生」の出してくれる音を、聞いていた。
 虚無の気持ち。虚無、という言葉は、なかった。

 私は、体の半分では、自分が、人が何を言っているのかわからない、ということを、隠せるようになったのかもしれない。
 もう、「先生」にも見つからないくらい、人間の形をできるようになったのかもしれない。
 と、今日の罰を免れたような気持ちだった。

 人間の国では、人間の形をしていないと、ものすごくひどいことが起きるから。

 もう半分は、私はこの先ずっと、私が人が何を言っているのか全くわかっていないということを、誰にも知られないまま、気を抜くとすぐばらばらに戻る、毎日毎秒、人間の形を保つだけでも精一杯の、中身が人間なのかどうかもわからない、出来損ないの機体を抱え、生きていかないといけないのだ、と思ったら、今すぐ消えたいと思った。
 思っていない。

 私(たち)は、こんなことは思わなかった。ただ、開いた目の中が真っ黒だった。

 「先生」は、「先生」の手で、私の服の上から、私の背骨を上下に撫でた。
 これは、自分の吸う息が、喉の気管を冷やした。
 私(たち)は、叫び声を持っていなかった。だから、とても静かだった。

 静かに、私は、背中の筋肉がこわばった
 この時は、もう嗚咽ではなく、私(たち)は、背中の皮膚の下を、砂のついた濡れた手で、かき回されているようだった。

 「先生」は、撫でる速度を早くした。
 私は、自分の両膝の間に、自分の後頭部を入れて、体を丸めた。
 「先生」が、離れて行ってくれるまで。

 触らないで欲しい。吐きそうになるから。
 体の皮膚が、逆立った鱗みたいに、ぞぶぞぶぞぶぞぶ裏返るから。やめて。
 という言葉は、ひとつもなかった。