いない 27  「私は人が何を言っているのか全くわかりません」

 (※自死の描写があります)(生きてはいます)




















 大人になってから、夏に私が首を吊った。その年の四月ごろから準備をしていた。
 
 目が覚めると、私の耳の中で、砂嵐みたいな音が鳴り続けていた。ぐらぐらして、体の平衡が取れない。
 視界の、上と下とがひっくり返りながら、そばにある姿見の前に這っていくと、私の顔は、紫色の風船のように膨らんでいた。斑点みたいに鬱血している。
 人の顔はこんなに膨らむのか、と私は思った。頭痛と吐き気。
 私は、鏡の前から寝返りを打つような形で、そうしないと吐きそうだったので、少しずつ移動した。

 あとから、人に心配や迷惑をかけたことは、申し訳ないと思った。
 しかし私(たち)は、首を吊ってごめんなさい、とは、思えなかった。
 私は、正しいことをしたと思った。私は、私を助けようとした。
 私(たち)は、水溜まりの羽虫みたいに、ずっと、のたうち回ってきた。潰したら助かると思った。
 体があるからつらいので、機械を壊せば解決する。死ねば解決する。私は私を助ける。

 その数日後に、診察予約を入れていた。私の顔は、風船みたいに膨らんだ当日からは、少しずつしぼみ、まだ多少丸いが、まあ、顔のような形に、戻りつつあった。
 首の擦り傷みたいな跡と、顎から頬あたりまでの鬱血痕は、まだ少し残っていた。

 私が、待合廊下で名前を呼ばれ、いくつか並んだ診察室のドアのうちひとつを、片手の、中指と手の甲の境目にある関節で、3度、10段階中3くらいの力で叩き、中へ入ると、先生は、目をいつもより大きくする動作をし、
 「どうしたの?」
 と、私に聞いた。

 私は、
 「受付でもお伝えしたんですが、なんか、首を吊っちゃって。」
 と、医師に、答えて言った。私の声は、変に掠れて、ざらざらした音になっていた。

 医師は、「まあまあ、座ってください。」と、私に、医師と机を挟んだ向かい側、ドアを背にした、いつもの椅子を勧めた。
 医師は、私が医師にお礼を言い、椅子に座るまで待ち、
 「どうしたの?」
 と、もう一度聞いた。

 私は、それ、さっき答えたな、と思い、いいえ。思ってはいない。言葉はなかった。
 私は口を半分開け、動作の信号を探した。
 このような場合に、これが、すべき動作。記録を探す。頭の中の記録を探している間、私は、止まっている。

 私が動作を見つける前に、医師が、
 「大変だったね。」
 と言い、
 「痛かったでしょう。」
 と、私に言った。

 私は、
 「わかりません。」
 と、医師に、答えて言った。

 医師は、
 「なんか、つらくなっちゃった?」
 と、私に聞いた。

 私は、わかりません、の、「わか、」まで音を出したあたりで、自分の手首や手の甲に、粒の大きい水が落ちていくのを感じ、体が止まった。私は、
 「すみません。」
 と、医師に言った。

 私が下を見ている間、医師がカルテ用のパソコンへ、何か打ち込んでいる音がした。

 先生、泣いて、すみません。これでも一応、私(たち)は、「泣けばいいと思いやがって」いるわけではなく、「甘ったれて」すみません。ちゃんと死ねばよかったのに。生きてここにいて、すみません。私が死ねばいい。生まれてしまって、ごめんなさい。

 私がそう言いたいのは、多分、医師に対してではなかった。誰に対してだろう。
 おじいちゃん? おばあちゃん? お父さん? お母さん? 
 私は、このうち、誰に対してでもあるような気がしたし、同時に、誰に対してでもないような気がした。

 私は、誰に謝っているのだろう。そもそも、申し訳ない、とは、何だろう。ごめんなさい、とは? 
 言葉が、私は、わからない。
 ごめんなさい、とは、私(たち)が相手を困らせた時、つまり相手が拳を振り上げた時に、反射で口から出る、音。意味の理解は、していない。

 医師は、「いやあ、大変だよ。」と、私に言った。医師は、座面の回る椅子で、体を私に向き直し、
 「**さんがうちに来てくれて、一年? 二年? 
 **さんは、いつも、しっかりしていてさ、礼儀正しいし、大丈夫ですって言うし、クリニックには1ヶ月から3ヶ月に一回でよくて、何かの手続きで困った時に診断書を書いて欲しいから、お医者さんに繋がっていたいって、言ってたけどさ。」

 と、私に言い、私の目を見た。目を見ないで欲しい。顔がばらばらになるから。という言葉は、なかった。
 私(たち)は、先生の喉から顎のあたりを見た。

 これは、高校三年生の担任だった先生が、教えてくれたやり方だ。入試の面接練習で、(結局、入試は、私と呼んでいるこれが入院していて、受けられなかった。)
 「なんか、目が揺れてない?」
 と、高校の先生が、私に聞いた。私は、先生が何を言っているのか、全く、わからなかった。

 私は口を半分開け、止まっていた。頭は止まってはいなかった。機械は、動いている。電動ノコギリみたいに。しかし、言葉にならないなら、止まっているのと一緒だ。一緒だろうか。

 高校の先生は、
 「なんか、なんだろうなこれ。」
 と、口の中で呟きながら、首を傾げたり、自分の顔を片手の平で覆うように触ったりしていた。

 高校の先生は、
 「あっ。面接官の後ろのカーテンとか見てない?」
 と、私に聞いた。私は、止まっていた。高校の先生は、
 「微妙にあなたの目線が、こっちの顔を見ようとして、通り抜けてる感じがしてさあ。」
 と、私に言った。

 私(たち)は、「はい、そうです。じゃないと、あなたの顔が、ばらばらになるから。」という言葉を、持っていなかった。
 私は、困った、という顔の動かし方、具体的には、閉じた口の中で、上下の奥歯を噛み合わせ、眉と目を一緒に縮め、わずかに首を傾げ、黙った。

 高校の先生は、
 「もしかして、人の目を見るの、苦手か。」
 と、私に聞いた。
 私の目は、まばたきをした。私の口は、わずかに開いた。声はなかった。苦手、という言葉を、私は持っていなかった。

 高校の先生は、
 「じゃあさ、面接中、苦手なことに脳みそを回すの、もったいないから、目を見ようと思わない方がいいんじゃないか。例えば、そうだな。首とかどう?」
 と、私に言った。

 私は、先生が何を言っているのか、全くわからなかった。首とか、? どう。とは。
 高校の先生は、
 「首ー、が、難しければさ、ネクタイとか。襟とか。
 面接官は、まあ大体、ネクタイか襟は、どっちか、付いていると思うんだよね。
 襟、なかったら、服の上端でもいい。顎とか。目印つけやすいとこ、ないの。」
 と、私に言った。

 私は、しばらく黙った。私は、
 「あ、あご、」
 と、高校の先生に、ものすごく小さな声で言った。
 怒られると思ったからだ。怒られるというのは、この場合、大きな音で何か言われるか、先生の近くに置いてある30センチ定規か書類の束で、顔か頭を殴られる、またはその両方、くらいの意味で言っている。
 私は備えた。殴られると思わないところを殴られるより、殴られると分かっている上で殴られた方が、「大丈夫」だ。ところで、大丈夫、とは、何だろう。私(たち)は、言葉が、わからない。

 高校の先生は、
 「顎かあ! なんで?」
 と、笑う顔をして、言った。

 私は、困惑しながら、回答を求められているのだと、自分と読んでいる、この、? 何? わからないが、機械みたいな、これに、高校の先生の言葉を、入れた。

 私(たち)は、
 「首の、終わりだから。」
 と、高校の先生に、答えて言った。殴られる準備をした。おまえは頭がおかしい、おまえが悪い、おまえのせいだ、おまえはおかしい。

 高校の先生は、
 「なるほど! わかんない!」
 と、笑う顔をして言った。

 高校の先生は、自分の顎に、片手の親指から人差し指の曲線をはめるように当てて、斜め下を見て、んー、という、音を出した。

 高校の先生は、
 「顎がわかりやすいなら、顎がいいか。目を見なくていいよ。だいたいこのあたり、」
 と言いながら、高校の先生の鎖骨の真ん中から、鼻と目の中間から指一本分くらい目寄りの高さを、水平にした両手で示した。

 高校の先生は、
 「このくらいの範囲、なるべく上寄りがいいけど、見てればさ、面接官にとって、あなたが、『相手の目、少なくとも、顔を見て話している感じ』になるから。目だけに集中しなくていい。言葉、飛ぶでしょ。」
 と、私に言った。

 私は、うつむいた。先生は、「どうしたの。」と、私に言った。
 私は、お礼を言うべきだと思った。ありがとうございます、の動作が要る。
 動作は、すぐに出なかった。私はなんだかわからないけれど、目の中が、泣く前の揺らぐ感じがした。怒られなかった。

 私は、医師の顎のあたりを見ていた。医師は、続けて、
 「もちろん、こちらは**さんが、したいように来てくれたら、いいよ。
 でも、診断書が必要な時だけ来ます、でもいいんだけどさ、もしよかったら、なんか、お話に来ない?」
 と、私に言った。

 私は、医師が何を言っているのか、全く、わからなかった。私のしたいように、とは、なんだろう。そんなものが、あっただろうか。生きていたくない。これは、私(たち)が、やっと、わかって、実行し、失敗した。他は、何も、ない。私は、医師の頰のあたりを見た。

 医師は、
 「症状の話じゃなくていいから。何が好きとか、遊びに行った場所の話とか。なんかないかな。ああ、そのハンカチ。かわいいね。猫?」
 と、私が自分の濡れた手の甲を拭いていた、私のハンカチについて、言った。

 私は、
 「猫です。」
 と、医師に、答えて言った。医師は、
 「やっぱり。**さんは、ハンカチいつも可愛いなって思ってた。自分で選んだの?」
 と、私に聞いた。私は、頷いた。

 医師は、
 「きっと、好きなものがあるんだよ。私は、これ、汗拭きタオルなんだけど、そんなに選ばずに買ったの。水を吸えばなんでもいいかなと思って。恥ずかしいー。別のやつ持ってくればよかったな。」
 と、吐く息に笑い声を混ぜながら、医師の手元の小さなタオルを広げ、私に見せた。

 医師は、カルテ用パソコンの周りに置いてある、毛糸で編まれた多分、うさぎ? 
 私の拳くらいの大きさで、全体は桃色の糸の、上半身だけ焦茶色のベストを着ているように見える。腹部の色は、楕円に白い。目の位置には、小さな黒いボタンが二つ、間隔を開けて止めてある。耳が長い。
 の、ぬいぐるみを持ち上げ、私に見せた。

 医師は、
 「これ、前の患者さんが作ってくれたものでね。こういうの作るのは、**さんは、好き? 作業療法っていうのがあって。何か無心で作っていると、楽になるって人もいるよ。」
 と、言いながら、私と医師の真ん中くらいの距離まで、医師の腕を伸ばし、ぬいぐるみを、回して見せた。

 私は、ぬいぐるみを熱心に見る、という動作をした。私は、考えてから、
 「編み物は、できません。」
 と、医師に、答えて言った。

 医師は、そっかあ、と言った。私は、急いで、
 「でもそのうさぎさんはかわいいです。」
 という、音を出した。

 私は、おもちゃを、これはどう、これはどう、と、かつて私が、アルバイト先のお嬢さんの子守りをしていた時に、お嬢さんは何が好きだろうと、児童館で色々とやってみたことを、思い出した。

 先生は、私と話をしたい、という動作を、してくれているのだろうか。そういう仕事なのだろうか。
 おじいちゃんは知っている。どうせおまえの話を聞きたい人間なんか、この世に一人だっていない。おまえなんか今すぐ死ね。私は、
 「はい。」
 と、言った。

 医師は、
 「ね。予約、二週間に一回とか、週に一回とか。もちろん今まで通り、月に一回でも、三ヶ月おきでもいいよ。**さんのしたいようにして。でも、今日はちょっと心配だから、次だけは、来週に来てくれる?」
 と、私に言った。

 私は、
 「はい。ごめんなさい。」
 と、医師に言った。

 医師は、いいよ、いいよ。お話しよう。というようなことを私に言った。時間が経ち、秋の終わりの診察で、私が、
 「私は、人が何を言っているのか、全く、わかりません。」
 と、初めて、人間に言った。