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「重力」がないとやっていけない。身体も、心も

信じられていると感じる場所は、居場所になる。
なんとなくは分かるし、実施に「自分への信頼」を感じられる場所・繋がりは心地良い。
でも、「信じられているって感じられるのは何故?」「信じられているってどういう状態?」って聞かれると、答えに詰まってしまう。

きっと答えは複数あるけれど、そのうちの一つが、ふじわらさんのnote「心にも重力を感じないと立っていられないよ」にあると思った。

「信じられている」は「心の重力」

「信じられている」という感覚とはどんなものなのか。

これは心にとっての重力と言えるんじゃないかと私は思うのです。

ふじわらさんのnoteより

わたしたちの身体は、日々重力を受けながら生きている。日頃、それを自覚することはないけれど、重力がなかったら地に足を着けることも、ソファにごろ寝することも、そもそも身体を保つこともできない。
ふじわらさんは、心にとっての重力、心を保つための存在が、「信じられている」という感覚なのではないかと言う。

普段は重力なんていうものを忘れて、歩き走り、踊ることもできます。これが「信じられている」という感覚なのではないかなと。

ふじわらさんのnoteより

「この人から信じられていると思う?」と問われると、口ごもってしまう。でも、「信じられていない」感覚はないし、なんとなく「信じてもらえているんだろうな」と思っている。

つまりは、重力のようなものなのだ。
「重力、感じる?」と言われても、よく分からない。「まあ、あるんでしょう」と言うしかない。重力は目に見えないし、推し量ることも容易ではない。なんとなくある気はする、というだけ。
「信じられている」感覚も、同じなのだろう。

例えば「頼られている」とか「任されている」とかは分かりやすい。そのきっかけになる行動(相談受けたりとか、プロジェクトに抜擢されるとか)がある。
でも「信じられている」は、「あ、今!」と思えるタイミングが少ない。ひとつの行動で決まるのではなく、時間や行動、言葉の蓄積によってじょじょに育まれていくからかもしれない。

「信じられている」に気付く方法

「あ、今!」と思うのは難しくても、どうにか「わたし、信じられてる」と感じることはできないだろうか。

ふじわらさんは、このように書いている。

自分の存在する意味や価値を問うてしまうとき、心にとっての重力を感じとろうとしてみると、普段は感じ取ることのできなかった愛や、重すぎた期待など発見があるかもしれません。

ふじわらさんのnoteより

「わたし、ここに居ていいのかな」「何のために生きてるんだろう」そんな難しい問いが思い浮かぶとき、だいたいは心にヒビが入っている。
「信じられている」と気づくのは、その心を充填するきっかけとなり得るはずだ。

心にとっての重力を感じ取る、ってどうしたらいいんだろう。
いろいろ考えてみると、どうやら「信じられている」は、後からなら気付きやすいみたいだ。

・最近してもらったこと/したこと
・周りの人に対して自分がどう思っているか
・過去の一点と比較して、自分に起こった変化

そういうものを振り返って、文字に起こしてみる。
すると、「どうやらこの時、わたしは相手を信じていたな」「信じてくれていたからこうなったのだろうな」と思う出来事・考えが見つかる。

「信じられている」感覚は、その場では気づきにくいけど、後から振り返ってみると、ひょこっと顔を出してくれるようだ。

心がすり減った時、ちょっと凹んだ時、なぜだか視界がゆがむ時。
前を向くのに疲れたら、思い切って後ろを向いてみよう。「信じているよ」の声が、聞こえてくるかもしれない。

ふじわらさんのnoteは、とても素朴で親しみがもてる。
ふじわらさんの言葉を借りるなら、まさしく“プチギフト”のよう。残業中にそっと置かれた缶コーヒーのような優しさが、ふじわらさんのnoteにはあると思う。

「私のお気に入り #cotree_advent_note 」企画に寄せて。

cotree advent note は全部オススメなので、ぜひ。
あなたのお気に入りが見つかったら、嬉しいな。

わたしは全部お気に入りなので全部紹介します、
takaren advent note 19日目。


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