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「かわいそう」と言わないで。不登校生のわたしが求めていた、対等な関係について

わたしは、中学1年生の6月~12月ごろと、2年生の5月~7月、まったく学校に行っていなかった。

いわゆる「不登校生」。当時はフリースクールもメジャーではなかったし、学校以外で同年代が集まる場所も知らなかったから、ただただ自室に籠る毎日だった。

人と話したくてパソコンを開いても、インターネットの世界には怖い人や怖い言葉がたくさん。
「不登校は甘えだ」「育ててもらってるんだから親に感謝しろ」「もっと苦しい子もいる」
もちろんやさしい人もいたけれど、ネガティブなワードばかりが心に残って。ささくれのような小さな傷が、わたしの心にはついていった。

家にいても、学校に行っていない後ろめたさから自責の日々。泣くことも許されない気がして、でも口を開けば攻撃的な言葉か愚痴が出てきてしまいそうで、一言も発さない日が続いた。

この話をすると、だいたいの人はちょっとつらそうな顔をする。
「かわいそうに」「つらかったでしょう」
そんな言葉が聞こえてくる。

元々はそんなこと思っていなかったのに、段々自分が「かわいそう」に思えてくる。

わたしって、「かわいそう」なのかな。

かわいそう、じゃない。不登校がつらい、わけじゃない。

学校に行っていないことがつらいんじゃない。

学校に行っていないことを周りに責められるのがつらい。
他の子と比較されて、「普通」を求められるのがつらい。

「かわいそう」と言われるのがつらかった。

不登校への理解が広がってきたとはいえ、やはり登校が普通で、不登校は特殊だ。

「学校に行っていないってことは、特別な事情があるんでしょう? 大変よねぇ。」

そんな言葉を掛けられるたびに、居心地が悪かった。
わたしはいじめがキッカケで不登校になったけれど、ニュースで扱われるような惨い目に遭ったわけではない。手を挙げられることもなかったし、ものを壊されることもなかった。(濡らされたり、踏まれたりはしたけれど。)

もっとつらい子もいるのに、わたしは何で学校に行けないんだろう……。
そうやって周りと比べてしまうのも、つらかった。

お願いだから、わたしの目を見て。声を聞いて。

叫びたかった。

わたしの目を見て。声を聞いて。

友達と比べないで。
普通でいられないことを責めないで。
少しだけでいいから休ませて。
もう何も求めないで。できないことを許して。
「不登校生」の枠で括らないで。

叫びたかったけれど、叫べなかった。

当時、わたしの声が届く場所はなかったから。
学校でも、家でも、わたしの味方になってくれる人なんていなかった。

きっと、わたしの幸せを願ってくれる人はいたと思う。両親だって、わたしが嫌いなわけではなかっただろう。

でも、わたしが求めていたものを与えてくれる人はいなかった。
「本当は、こうしてほしいんです」と言えるような相手は、いなかった。

当時のわたしが求めていたのは「友達」だった。

当時わたしはどんな相手を求めていたんだろう、と考える。

自分の気持ちを理解してくれる人?
親に代わりに本心を伝えてくれる人?

きっと、多くを求めていたわけじゃない。
「友達」がほしかったんだ。

何気ない雑談ができる人。
昼間からメールできたり、話せたりする人。
「本当は、こうしたいんだよ」と吐き出せる人。
そして、わたしにもそう吐き出してくれる人。

そういう相手を探していたのだと思う。

支援者ではなく、当事者になりたい

わたしは支援者の一人ではあるが、当事者でもありたいと思っている。

もちろん学校を卒業した今は当事者ではないけれど……。
誰かの課題を解決するために動くのではなく、自分の課題として不登校を考えたい。
自分が学生だった頃に感じていた苦しみや孤独を忘れたくない。
当時あんなに嫌だったことを、大人になってから「まぁ、しょうがないよね」なんて言いたくない。

わたしは「支援者」だ。完璧な「当事者」にはなれない。せいぜい、「当事者の近いところにいる人」くらいだろう。
それでも諦めたくないのは、きっとあの頃のわたしが求めていた存在になりたいからだ。

わたしは見つけられなかったけど、今を生きる子たちにはちゃんと見つけてほしいからだ。

良き遊び相手であり、良き相談相手であり、良きライバルでもあるような。対等な関係性を、築いていきたい。

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