#04 喜びの隣にいる悲しみ について

愛犬と一緒にお昼寝しているとき、わたしは言葉では言い表しきれない喜びを抱く。

その体温や、心臓の動き、たしかな重さが、
ここにいるんだよ、隣にいるよ、
と教えてくれている気がする。

と同時に、わずかな悲しみを覚える。
このあたたかさが、この動きが、この重みが、
永遠ではないことを、わたしは知っているから。


家族に犬が加わるのは、今の愛犬が初めてではない。

10年以上前、一匹の子犬が我が家にやってきた。

飼いたい飼いたい、と兄妹そろってせがんだワンコ。
おすわりを教えたり、お散歩に行ったり、犬がいる生活は豊かだった。

でも、その日々は長くはなかった。
散歩もご飯も親任せ。自分は友達と公園へ行き、家にいる間もゲージから出してやることさえしない。

わたしがその罪深さに気付けたのは、愛犬が10歳をゆうに超えた頃だった。


わたしが20歳になったとき、愛犬は15歳だった。
一緒の布団で寝た。散歩にも行った。ブラッシングもした。頭を撫でると、嬉しそうにすり寄ってくれた。ヘルニアに気付いたときは、すぐに病院へと連れて行った。

愛犬がその呼吸を止めていたとき、最初に気付いたのはわたしだった。

夜遅く帰ると、リビングの真ん中で仰向けに寝転がっていて。
そのときには、もう身体は硬くなっていた。
体温は、まだ暖かかった。


喜びの隣には、常に悲しみがいる。

友達と出店のたこ焼きを半分こするときも。
二代目の愛犬とベランダでまどろむときも。

大きな喜びに隠れてその瞬間には見えなくても、ふとした拍子に気付かされる。
隙間に潜んでいる悲しみに、つい目が向いてしまう。

ああ、楽しいときは、永遠ではないんだ。

その瞬間、まるでさっきまでの喜びが幻だったかのような気持ちになる。


悲しみがあることは、喜びの否定にはならない。

そもそも、感情なんて目に見えなくて、明確でなくて、一色ではないもの、
100%こう、なんて言える瞬間はないのだと思う。

嬉しいけど、淋しい。喜びたいけど、悲しい。怒っているけど、楽しい。
いくつもの感情が層になって、混ざり合いながら、分かれながら、わたしという人間をつくっている。


悲しいのは、つらい。できれば、少なくなってほしい。
でも、悲しみもわたしの大切な一部だから、そっと大切にしたい。

そんなことを考える今日この頃です。


2019.08.20

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