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人の言葉から深く読み取ろうとすること

さりげない言葉から、その人の感情まで想像できる人がいる。
限られた情報だけで、その人にとって最適な行動はどれかを考えられる人がいる。
軽くおしゃべりしていただけなのに、いつの間にか出生秘話のようなものまで話してしまう人がいる。

わたしはそういう、「読み取るのがうまい人」「軽いラリーで悩み事やコンプレックスを引き出せる人」にとても憧れている。
自分はそこから、すごく遠い場所にいると思っているから。

※今回のnoteにおいて「インプット」という言葉が頻出するが、これは情報を得る・読み取る・汲み取るみたいな行為をまるっとまとめた表現として受け取ってもらえると助かる。

自分で書いたnote「とある、やさしくて、強くて、すてきな人の話」の感想note。謎。

インプットが苦手だと思っていた

わたしはずっと、インプットが苦手だと思っていた。
今でもアウトプットとインプットならアウトプットのほうが得意だと思うし、友人からも「れんちゃんは相談に乗るのは上手だけど、軽いテンションで相手から引き出すの苦手だよね」と言われたことがある。

まさしく、「軽いラリーの中で相手の真意を読み取ること」「より効率的に必要な情報を選択すること」に対して苦手意識があった。

「たかれんさんはいつも汲み取ってくれてやさしい」

わたしが尊敬してやまない方から、そう言っていただいたことがある。

インプットに苦手意識を持っているわたしにとって、この言葉は目から鱗が落ちるようで。

人の言葉から真意をつかみ取るとか、些細な言動の変化から気持ちの機微を見つめるとか、そういうことがずっとしたくて、でもできないと思っていた。

でもそれを「いつも」汲み取ってくれて、と表現する人がいる。
しかも、「この人の物の見方は面白いな~」「いつも気持ちの些細な変化を読み取れてすごいな~」と常々感じている相手からだ。一体これは、どういうことか。

わ、わたしは、汲み取れているのだろうか……?

あらためて、自分の文章を読んで

こうしてnoteを書くにあたって、自分のnoteをよく読み返してみた。普段はあまり読み込むほうではない(公開する時でさえさらっと読み返しておしまいにしがちだ)から、なんだかソワソワするような、恥ずかしいような気持ちだけれど、ひとつ気付いたことがある。

たしかにわたしは「軽いラリーの中で相手の真意を読み取ること」「より効率的に必要な情報を選択すること」が不得手だけれど、インプット自体が苦手なわけではなかった。

例えば、人の文章をよく読んで、その人の意図がより伝わる文章にするにはどうしたらいいかを考えることのような。
深く向き合うこと、より奥のほうまで手を伸ばすことに関しては、別に苦手なわけではなかった。むしろ、「この気持ちを理解してくれたのはれんちゃんが初めてだよ~~」と涙してくれる人もいた。

どうやらわたしは「早く・シンプルに・軽く」が苦手なだけで、むしろその逆の「じっくりと・丁寧に・深く」読み取ることは好きだし得意なようだ。

強い苦手意識や悩み、コンプレックスを持つ時、人は主語を大きくしがちなんだそうだ。「みんなそう思ってる」とか「全部うまくいかない」とか。
わたしのインプットに対する苦手意識も、「インプット」という言葉の意味合いを大きくまとめすぎていた故のものなのかもしれない。

1個だけ、訂正を。

noteの中で書いたことについて、ひとつだけ訂正をしたい。

2つのものをどちらも大切にしようとして、3つ目が犠牲になってしまう時のことについて。わたしはこのように書いた。

要は、「目の前のことで一生懸命になっている時ほど、周りに目を向けて、今の自分にとってどれがベスト・ベターな選択なのかをよく考えたいな」ってことです。

このnoteを公開した後にひらやまさんと話した時にも感じたのだけど、これはちょっと違うかもなーと思っていて。
noteを書いた当時のわたしは「1つ目」と「2つ目」と「3つ目」をすべて等しく扱っていた。言い換えれば、「Aさんの言い分」と「Bさんの言い分」と「自分の気持ち」を同じ重さで捉えていた。

もちろん、二つの異なるものを同時に大切にしようと思った時、どちらかに偏らないのは大切。けれど、そこに「自分の気持ち」が入っているのなら、その比重は少し偏るのが自然なんだと思う。
自分の気持ちを一番大切にしてあげられるのは、自分だけだから。

takaren advent note 44日目

cotree advent note 超リスペクト企画。最近前後しちゃってるけど許してね。


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