わたしはあと何度、心の底から「生きた」と思えるのだろう
人生100年時代、なんて言われているけれど、実際にはいつ終わりが来るか分からないし、身体がいつまで動くかも分からない。
1年後、1か月後、明日。
もしかしたら今日が終わるより先に、わたしのほうが終わるのかもしれない。
昔読んだ小説のヒロインは、余命宣告を受けていた。
あと、1年。
ヒロインが亡くなったのは、その宣告から9か月後のことだった。
いつ終わるか分からないのに、なんで意識できないんだろう
わたしたちは誰だって知っているはず。今ある生活が、この日々が、永遠ではないって。永遠はおろか、100年先までも続かないって。
それなのに、どうして意識できないんだろう。
いずれは終わりが来ること。
ずっとは続かないこと。
目の前の人の笑顔を見れるのは当たり前ではないこと。
もしかしたら、見ないふりをしているのかもしれない。
恐れているのかもしれない。
知ってても、分からないから。
終わりが来たら、どうなるのか。
その終わりに、自分は耐えられるのか。
目の前の人の笑顔が消えた先に、果たして何が待っているのか。
そんなの、知りようがない。
それを知れるのは、終わりを迎えた後なのだから。
分からないものは、怖い。
怖いから、見ないふりをしてしまう。
まるで終わりなんて来ないかのように。
また明日が来るのが当たり前みたいに、「またね」と笑顔で手を振る。
手を振った先に、誰もいないのかもしれないのに。
生きた長さよりも、生きた濃さを問いたい
いつ終わるか分からないし、それは明日や今日かもしれない。
ただ、少なくとも現時点では、今日や明日ではない可能性のほうがなんとなく高いと思う。
現に今日も、もうすぐ終わりを迎えようとしている。
今日の終わりとわたしの終わりは、どうやら今日のほうが早かったみたいだ。
こんなふうに考えながら、時に怯えながら明日を迎えるのは、しんどい。だって終わりが来ないうちは、何度だって明日はやって来るから。
どうせなら、「明日は何をしようかな」「明日はどんな人に会えるかな」と胸をワクワクさせながら生きていきたい。
生きた長さよりも、生きた濃さのほうが、きっと大切だから。
長いに越したことはない、とも思うんだけどね。
心の底から「生きた」と思える瞬間を
わたしは、あなたは、今日を生きている。
けれど生きるというのは、ただ呼吸をして、エネルギーを消費して、時の流れに乗ることではないと思う。
感情を振るわせたり。
勇気を振り絞ったり。
そっと涙を流したり。
そういう時、わたしは「生きた」と思う。
「ああ、今、生きてる。生きてるなぁ、わたし」って、なんだかあったかい気持ちになるんだ。
どうせいつ終わるか分からないなら、こんな「生きた」と思える瞬間を散りばめていきたい。
毎日毎瞬間は難しくても、ふと振り返った時に「あぁ、生きてきたなぁ」と思えるような日々を送りたい。
そんなことを思いながら、今日はわたしも生きている。
***
TOP画像は地元の花火大会。
花火はほんの一瞬だけれど、その残り火や残り香が、じんわりと胸に沁みてくる。ああいう風に、わたしは生きたい。
感想、コメント、リクエストなどいただけたら嬉しいです。「たかれんのこんな記事読みたい!」があったらDMにどうぞ!