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居場所づくりをするわたしの、居場所についての考察

コミュニティづくりや人との繋がりを仕事にし、またそれが趣味でもあるわたしにとって、「居場所」という言葉はとても大切なものである。

そんな「居場所」をテーマにしたnoteはたくさんあるけれど、中でもべとりんさんのnote「"居場所"を求める運動の果て イベント「居場所の未来」で考えたこと」は特に興味深かった。

「居場所があるのか」という問い

「居場所の未来」というトークイベントに参加されてきたというべとりんさん。

"居場所の未来"のトークショーは、(もし結論らしいものがあるとすれば)『「居場所があるのか?」を問うてはいけない』という結論だった。少なくとも、私はそう感じたし、同じように受け取った聴衆も多くいるだろう。

note|"居場所"を求める運動の果て イベント「居場所の未来」で考えたこと

居場所についての考えを深める会において、結論と言えるものが『「居場所があるのか?」を問うてはいけない』とは……。なんとも不思議なものである。

それに対してべとりんさんは、「“市民”と“旅人”」や、「馬車の上の仲間」などを示しながら、考える。
居場所とはどういうものなのか。なぜ、居場所についての考えを深めていく会の結論のひとつが、「居場所があるのか、は問うてはいけない」になったのか。
このあたりは、べとりんさんのnoteをぜひ読んでみてほしい。何も言い添える必要のない、本当に良い構造をしたnoteだと思う。(めっちゃ上からな言葉になってしまうけど!本当に!読み物として純粋に面白いので!ぜひ!!)

市民と旅人。居場所を巡る悩みの質

特に学びが深かったのは、「本好きの下克上~司書になるためには手段を選んでいられません~」という作品においての、“市民”と“旅人”の話。

ある街に暮らす少年・ルッツは、今の街に対して居づらさを感じていて、だから新しい居場所を求めて旅商人になることを考える。しかし、元旅商人・オットーは、そんなルッツに対して「旅商人が求めるのは、市民権(=この街に住むことのできる権利)だ」と話す。
旅商人にとっては、水を汲むことすら容易ではない。穏やかな日常は許されず、常に開拓し、探索していかなければならない。だからこそ、旅商人にとっては、ルッツが嫌がっている「街への定住」こそが最も望むことなのだそうだ。

ここでべとりんさんは、“「市民」と「旅人」の間では、"居場所"を巡る悩みの質が全く異なると思える。”と話す。

そして、現代の多くの人は、「市民」と「旅人」の間を往復しつづけているのではないだろうか。家入さんが、新しい「居場所」を作り出しても、そこからすぐ飛び出してしまうように、我々は新しい居場所を見つけても、そこに「市民」として居続けることができずに、すぐに飛び出してしまう。そして、飛び出した先で、「市民権」のある暮らしを夢想するーー街に定住した、安全な暮らしを。

note|"居場所"を求める運動の果て イベント「居場所の未来」で考えたこと

なんとも不思議な話である。
「市民」として居続けられず、わたしたちは「旅人」になる。しかし、飛び出した先での「市民権」を求め、また「市民」としての暮らしを手に入れる。しかしそこもいずれは居心地の悪いものになり、再び「旅人」としての居場所の模索が始まる……。

そしてこの、無限に繰り返される「より良い居場所の探求」こそが、今回のトークイベントを“カオス”にした理由だ、とべとりんさんは言う。

たしかに、居場所探しが永遠に続くものであるとするならば、「居場所はあるか?」は愚問だろう。仮にその問いに対する答えがあったとしても、遅かれ早かれ、答えは答えでなくなってしまう。

そこでべとりんさんは、「“居場所”を状態ではなく、過程と捉えることで、もっと別の議論をすることはできないだろうか。」と、新しい問いを立てる。

「1.今ある日常」と「5.新しい日常」だけに着目するのではなく、その間にある「2.旅立つ」「3.非日常」「4.日常の再構築」の3つの過程に目を向けてみるのだ。この過程を改善することで、無限に続く「より良い居場所」探しの過程そのものを、"居場所"として十全なものにすることはできないだろうか?

note|"居場所"を求める運動の果て イベント「居場所の未来」で考えたこと

これもとても興味深く、おもしろい話なのだが、この続きはぜひべとりんさんのnoteにて。
今回は、もうちょっと違う方法で、“居場所”について考えたい。

居場所=定住のイメージをなくす

少年ルッツはもしかしたら、「居場所」に対して「定住」のイメージを持っているのかもしれない。
居場所とは、居続けるもの。だからこそ今の居場所である”街”がしんどく、ここから飛び出したいと思う。

でも、どうだろう。
「居場所」とは、どういうところのことを言うのだろうか。本当に、「居続ける」ものなのだろうか。

「居場所」とは、「場所」ではなく「繋がり」なのかもしれない

冒頭に書いた通り、コミュニティづくりや人との繋がりが仕事であり、また趣味でもあるわたしにとって、「居場所」はとても大切なテーマだ。
「居場所とはなにか」「居場所はあるのか」という問いに向き合い続けてきた。もちろん、それに答えは出ていない。居場所とはの定義は、わたしの中で変わり続けている。

少年ルッツにとっての「居場所」は「街」だ。
しかしそれは、街という場所そのものを意味しているのではない。
少年ルッツが不満を抱いているのは、末っ子であるがゆえに、家族の中において立場が弱いからだ。つまり、「街」という場所に問題があるのではなく、その街の中での「繋がり」、家族との繋がり方に不満を抱いているのだ。
だとすれば、少年ルッツの「居場所」は、街の中にある「繋がり」を意味するのではないか。

わたしの身体は一つだから、わたしは一つの場所にしかいられない。「居場所」を言葉の通り、「居る場所(=居ていいと思える場所 / 居たいと思う場所)」と解釈すると、一つしか持てないのだから、今いる場所より良い場所を探すには、その貴重な一つを置いていかなければならない。

でも、「居場所」を「繋がり」と解釈するなら、わたしたちは複数の「居場所」を持つことができるはずだ。

「居場所がある」安心感を得たうえで、「居場所探し」の冒険をする

弊社社長の櫻本が、「社長だからちゃんとしなきゃと思っていたが、社員に自分の弱さを開示したら受け止めてもらえたときに、居場所感を感じた」という話題を出していた。

note|"居場所"を求める運動の果て イベント「居場所の未来」で考えたこと

この時の「居場所」とは「安心」と言い換えられるのではないだろうか。そう、居場所があるとは即ち安心があるということであり、不安を感じた時に居場所の無さ、あるいは今の居場所への不快感に気付くのではないか。

しかし、「居場所探し」は、不快感の捌け口となるだけのものではない。刺激的で、楽しくて、緊張感がありつつも、童心に帰るようなワクワク感がある。

不安や退屈を感じた後に「居場所探し」をすると、そこには一種の焦りが生まれると思う。新しい居場所を見つけないといけない、そうでないとあの退屈な日常に戻ってしまう、というような。
でも、「居場所探し」をプラスのものとして捉えられたら、それは冒険心をくすぐる、新しいイベントになるのではないだろうか。

安心できる居場所=繋がりを築いた後に、また別の居場所=繋がりを求めて冒険してみる。
そうしていくつかの居場所=繋がりを常にもちながら、新しい居場所=繋がりを模索する。
模索することに疲れたら今ある居場所=繋がりを大切にする日々をおくる。そしてまた刺激がほしくなったら、新しい居場所=繋がりを求めて旅をする。

そういう生き方はできないだろうか。
安心と不安を共存させることはできないだろうか。
流れの中で不安に駆られて居場所を探すのではなく、能動的に、楽しみながら居場所を探してみるのは、どうだろう。

あとがき

べとりんさんのnoteは、とても俯瞰的で、構造の整ったものが多いように思う。そうでありながら、べとりんさんの感情や葛藤も伝わってくる。
通常は相対する位置に置かれがちな「論理」と「感情」を共存させられるのが、すごいなぁ。
たまに感情のほうに振れ気味なフレーズを発見すると、嬉しくなる。

TOP画像は、ある夏の日、フリスクールのスタッフたちと川遊び&BBQに行った時のこと。
スクールのスタッフや通ってくれる子たちと一緒にいる時のわたしは、本当に良い顔をする。彼ら彼女らとの繋がりの中に安心を見出し、居場所を得ているからこそ、これほどリラックスできるのだろうなと思う。有難い。

このnoteは、「私のお気に入り #cotree_advent_note 」企画に寄せて書いたもの。

「cotree advent note」のnoteたちは、↓から。あなたのお気に入りが見つかったら、嬉しい。

おすすめnoteを一つずつ順番に書くことにして始めた、#takaren_advent_note 3日目。


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