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嫌われる覚悟を持つことはある種大切だけれど。「嫌われ役になってもいい」という言葉への違和感

ある人と二人でチームを作ろう、コミュニティを作ろうとしていた時、その人から言われた言葉が、ずっと引っかかっている。

「俺は嫌われ役になってもいいと思ってるから、れんちゃんのほうが歴も長いし、中心になって支えて」

複数人での活動の場において、リーダーと言われるようなポジションに就くと、言いにくいけれど言わなければならないことに遭遇する機会が多々ある。
チーム内での言動についてとか、メンバー間でのすれ違いについてとか。
わたしは、そういう「言いにくいことを言う」がひどく苦手で、傷つけまいとしすぎて、もはや何が言いたいのか分からなくなったり、一番大切なことが伝わらなかったりもした。

そういう時、たまに「わたしには嫌われる覚悟が足りないのではないか」と考える。
嫌われることを恐れるあまり、言えなくなっているのではないか。
結局、保身なのではないか。
本当に相手を思うなら、これをきちんと伝えるのが一番なのではないか。

嫌われる覚悟を持つことは、とても重要だと思う。
ただ一方で、「嫌われ役になってもいい」という言葉には、違和感がある

「嫌われ役になってもいい」の言葉の奥に感じたもの

「嫌われ役になってもいい」
その言葉の奥に、わたしは「諦め」があるのではないかと思っている。

大前提として、嫌われ役になってもいいという人は、そのチームを大切にしたいと思えていると思う。
大切だからこそ、自分が嫌われ役を買って出る、他のメンバーが言いにくいと思っていることを言う。それは、チームに貢献する方法の一つとしてあると思うし、立派だ。

でも、わたしがそこに「諦め」を見出してしまうのは、その人が嫌われ役になる時点で、チームのゴールには到達できないと考えているからだ。
「ゴール」のかたちはチームによってそれぞれだから一概には言えないけれど、どんなかたちのものであっても、必須の条件があると思っている。

それは、チームメンバー同士が信頼し合えていること(あるいは、この人を信頼すれば大丈夫だとメンバー全員が思える存在がいること)だ。

チームとして何かを目指したいものがあった時、それぞれが懐疑的になっていては、一つ進むのにも時間がかかる。

「アイツの言ったことは本当か?自分で調べてみないと」
「あんな人の言うことは信用できない。自分でアイデアを出そう」
「仕事を頼める雰囲気でもないし、スケジュールキツイけど一人でやろう」

だいぶ極端ではあるが、こういうことを考えるメンバーがいたら、最初に挙げた「目指したいもの」には辿り着けないのではないだろうか。

「嫌われ役でもいい」と言われたのが悲しかった

「嫌われ役」とは、「率先して言いにくいことを言う人」なのだろうか。
だとすれば、なぜその人は、嫌われ役と呼ばれるのだろうか。

言いにくいことを言う人は、大切だ。
時に行き詰まった議論を展開させる足がかりとなり、時に誰かのモヤモヤした心を晴らす風となる。
でも、そういう人を拒絶する文化、暗黙の了解がまかり通った文化の前では、その人は無力だ。「言いにくいことを言ってくれる貴重な人」ではなく「なんか余計なことを言う嫌なヤツ」になるのだろう。

「嫌われ役」とは、そういうことを指すのではないだろうか。
やっかまれ、面倒臭がられ、でもどこか的を射ているところもあって……。

だとすればわたしは、「嫌われ役になってもいい」という考え方がイヤなわけではなく、「嫌われ役になってもいい」とチームメンバーの前で言えたのが悲しかったのかもしれない。

わたしも彼もリーダー的立場にいるから、メンバー同士では言わないようなことも言う。でもわたしは、彼もチームの一員であってほしいと思うし、わたし自身もチームの一員でありたいと思う。

だからこそ、彼に自分を犠牲にするようなことは言ってほしくないと思ったし、また、そういう誰かの犠牲の上にしか成り立たないチームではないと感じていた。

「嫌われ役になってもいい」と「嫌われてもいい」の差

「嫌われ役になってもいい」と「嫌われてもいい」は似た言葉だけれど、ここには明確な差があると思う。

「嫌われ役になってもいい」は、役、つまり役割なのだから、「チームにとって必要だと判断した」過程があるはず。
だとしたら、その過程を見つめることで、彼が嫌われ役になる以外の活路を見出せないだろうか。

もし彼が、チームメンバー個人個人に対して「嫌われてもいい」と考えているとしたら、それはわたしがどうこうできる問題ではないな、と思う。

「嫌われてもいい」は、「嫌われ役になってもいい」とは違う。圧倒的な個人の感情だ。
チームに対する愛情が育たなかったのか、成育環境などに由来しているのか、それとも明確な理由なんてないのか。なんにしても、本人が本心からそう感じているのなら、苦しさを伴っていないのなら、わたしや周りがどうこう言う問題ではないのだ。
何を感じ、何を考え、何を言い、何を選択するかは、いつだって本人の自由なのだから。

それでもわたしは、諦めずにいたい

そう、本人の自由だ。
「嫌われ役になってもいい」だって、本人の自由なのかもしれない。わたしがそこに諦めを感じたり、やるせなさを抱いたりするのは、単なるわたしの我儘なのかもしれない。

それでもわたしは、諦めずにいたい。
完全に分かり合うことはできずとも、分かり合おうとする姿勢は保ちたい。
傷つけまいとして失うものがあっても、傷つけずに共に歩みたい。
そういうのを、諦めたくないんだ。諦めたくなる時もあるし、諦めたほうがいっそ楽だと思う時もあるけれど、最後の最後まで、掴んでいたい。

好かれようとしないことは大切にしたい

嫌われ役をつくらないことと同じくらい、好かれようとしないことも大切にしたい、と思っている。

「好かれたい」は、きっと誰しもがもつ感情。それ自体は悪いことじゃないけれど、好かれようとしすぎると、どこかで自分を犠牲にしたり、周りに無理に合わせたりする瞬間が来ると思う。

そういう時には、「好かれるのはどっちか」じゃなくて、「自分が取りたい選択肢はどっちか」みたいな考え方をしたい。

結局のところ、嫌われるのも好かれるのも相手主導のことだから、自分ではどうしようもない。
「嫌われてもいい」「好かれたい」という感情は態度や言葉に表れるけれど、その結果嫌われるかもしれないし、好かれるかもしれないし、どうとも思われないかもしれない。

自分ではコントロールできないものを基準にするのはしんどい。
そこに縛られていることに気付いたら、「無理に好かれようとしなくていいよ」ってそっと声をかけてあげたい。

「嫌われ役になってもいい」という言葉には違和感があるけど、嫌われる覚悟を持つのは大切なことだと思う。このあたりは、また後日。

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