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人の感情を理解する手がかりについて

フリースクールを運営して、Twitterなどでも活動していると、
「自分は不登校経験がないのだけれど、それでも子どもたちの感情を理解し、向き合うことはできるだろうか」
という質問を受けることがある。

わたしの正解は、まごう事なき「Yes」なのだが、今日はこのことについて考えてみたい。

「元不登校生たちが運営するフリースクール」の意味

そもそもこういった質問を多く受けるのは、わたし自身が代表を務めるフリースクールのコンセプトを「元不登校生たちが運営するフリースクール」にしているせいでもあると思う。

もちろん、「似た経験をしたから、お気持ちを理解したいと思うし、力になりたいと思っているんだよ」というメッセージでもあるのだが、このコンセプトを掲げたのは、そういう「当事者性」を打ち出したいから、というだけではない。

わたしは、子どもたちの将来像でありたいのだ。
今、苦しい状況にいて、それを打破したいとは思いつつも、孤独で、ひとりもがいている人に、届けたいのだ。
あなたと似た感情を持った経験のある人がいるということを。その人は学校に行かない道を選んだけれど、それでも居場所を見つけられたことを。今も悩むし迷うけれど、それでも好きな仕事を見つけて、友達もできて、楽しい日々を送っていることを。

子どもたちが苦しい今を見つめていっぱいいっぱいになってしまう前に、ちょっと明日を楽しみに思えるような、もう一日過ごしてみようと思えるような、そんなきっかけが作りたい。
そのきっかけになれる人間で在りたいのだ。

そのきっかけで在るために、わたしは「すごい人」ではなく「あなたと同じただの人」でいるために、「元不登校生の運営するフリースクール」の代表で在りたいと思っている。

人の感情を理解する、とは何か

感情を理解する、というのはなんなのだろう。

人の心は見えない。
見えないものは、分からない。
分からないものは理解できない。

わたしは、人の感情は「理解する」のではなく、「想像する」ものだと思っている。
この人はきっとこう感じているのだろう。こういう言葉がいいだろう。この反応だから、この対応はもっとこうしたほうがいいのだろう。
そんな想像と思考と行動を繰り返しながら、だんだんとその人の感情に近づいていくしかないのではないだろうか。

当事者経験は、あくまで手がかりに過ぎない

不登校に関する諸問題やフリースクールの在り方、支援の方法についての意見を述べる時、「当事者経験」は答えを持ってきてくれない。
不登校や引きこもりを経験はしたけれど、不登校の子たちにとってどんな居場所が在ればいいのかなんて未だに分からない。社会がどうなれば子どもたちが楽になれるのかも分からない。

想像する。
今の子どもたちが何を求めているのか。
どんな言葉を欲していて、どんな人と繋がりたいのか、そもそも人と繋がりたいのか。どんな環境に身を置けば、安心して過ごせるのか。
想像し、思考し、行動する。

当事者経験は、その想像の手がかりに過ぎない。
「わたしが不登校の頃はこんな言葉が欲しかったよ。あなたはどう?」
「わたしが引きこもりの時はこんな居場所を求めていたよ。あなたはどう?」
一つひとつ確かめながら、地道に進んでいくしかない。

手がかりになり得るもの

当事者経験は手がかりに過ぎないが、たかが手がかり、されど手がかり。
何もない状況で模索するよりも、ひとつでもヒントがあったほうが良い。そしてそれは、なにも当事者経験しかないわけではないのだ。

例えば、知識。
例えば、支援者経験。
例えば、他者の意見や考え。
例えば、当事者の声。

手がかりは、そこら中にある。
大切なのは、あなたが当事者経験を得ることではなく、当事者の役に立つものを届けることだ。手段と目的を勘違いしないように、手がかりのかたちにこだわらずに、手がかりに寄りすぎて目の前にいる人を視界から外さないように。
これからも気を引き締めていきたい。

TOP画像は、フリースクールのスタッフたちと話している時のわたし。
良い顔してるわ。

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