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しお

「ぇうえうえ~」
「だー、だー」
「あーい」

 ……とある冬の日の昼下がり。
 私は一人、おかしな言葉を赤子に向けていた。

「・・・・・・。」

 ムチムチとした乳児は、にっこり微笑みまっすぐこちらを見つめている。
 笑い声は……ない。

 生後半年を越えたうちの子は、言葉が少ない。
 いわゆる喃語というものを、ほとんど口にしない。

 あやすとにっこりはするのだが、いまいち反応が悪い。
 ニコニコするのだけれど、声を出さないのだ。

 あまりむずがる事もなく、夜泣きもしない。
 寝返りもお座りもするし、指も舐めるが、なんとなくおとなしいというか、物静かだ。

 完母で、胸が張ったタイミングで授乳をするためか、空腹を訴えることがない。
 声はあげないものの、手足をバタバタさせるのでおむつ替えのタイミングもわかりやすい。

 なんというか…非常にこう、口数が少なすぎるのだ。

 ……十歳上のお姉ちゃんの時は、もっと笑い転げていたように思う。
 男の子は言葉の発達が遅いという事も聞くから、気にしなくてもいいかなと思う反面…6か月健診の時の保健婦さんの何気ない一言が気になる。

 ―――いつもこんな感じでですか
 ―――要観察にしておきますけど、一応の記録なので…
 ―――なるべくいっぱい話しかけてあげてくださいね

 なるべく色々話しかけようと、絵本を読んでみたり音程のおかしな歌を聞かせてみたりするのだが、まるでスルーされてしまう。
 いや、声を出さずに笑っているし、じたばたと体を動かしているから反応はしているのだ。

「あばばばば!」
「ぷっぷー!」
「ばあ!!」

 もういっそのこと、意味のある言葉じゃなくて適当な発音だけを聞かせた方がいいんじゃないかと考えて……少し前からおかしな顔でいろいろと話しかけてみているわけだけれども…。

「・・・・・・。」

 安定のだんまりかあ。
 でも機嫌は良さそうだ。

 ……気が乗らないんだな、たぶん。
 まあ、焦っても仕方あるまい。

 私は気を取り直し、軽食を取ろうと机の上にあるゆで卵に手を伸ばした。

「あ、塩……」

 卓上塩に、手を伸ばした…その時!!!

「きゃふぅ!!うー!!」

 何やらはしゃいだような…わ、笑い声が!!!

「ちょ、え?!はい?!……し、塩?!」
「ぅるー!!」

 明らかにテンションが違う、なんか声になってる、何言ってるかさっぱりわかんないけど、声に出して笑っとるがな!!!

「しお、し、しおっ!!!」
「ぎゅー!!ぅふふ!!!」

 塩というワードの何が息子の野生?を呼び覚ましたのかわからないが。
 以降、【しお】は、息子のお気に入りワードになったのだ。

「ねえ、なんでしおっていうと笑うの?!お母さん何したの!!」
「しおーしおー!!ねえ、わらってみて!!」

「きゃー!!!」

 ごはんの時、お風呂の時、目が覚めた時、ぼんやりしてる時…ありとあらゆる場面で、家族総出で塩を連発した結果、遅いなりに言葉は少しづつ増えていったのだ。

 言葉での意志の疎通が可能になったあたりでなんで【しお】に反応してたのか聞いてみたのだけれども…。

「わからない…」

 結局理由はよくわからなかったのだなあ……。

 今でもふと、塩というワードを見るたびに…あの頃笑い転げていた息子の姿を思い出す。

 不機嫌だったときも、しおと言えば声をあげて笑って。
 注射のあとは、しおしお連発して看護師さんに笑われて。

 あの、乳児期独特の…甲高い笑い声。

 何度も何度も笑わせた、何度も何度も笑った、あの日の記憶。

 世の中には、【しお】がたくさん溢れている。

 うす塩味、うしお汁、塩コショウ、塩対応、塩、しお、シオ、SHIO……。

 きっとこれからも、私は塩を見るたびに、ずっと幸せな記憶を思い出しては微笑むのだろう。

 素晴らしい記憶を私の中に残してくれた家族に感謝しつつ…。
 私は、ゆで卵を食べるために、食卓塩に手を伸ばしたのであった。

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