見出し画像

南ベトナム政府軍将校の娘ティエン

私が最初にベトナム人と友達になったのは、2005年ごろある国に住んでいた時のことです。当時私はその国で駐在員をしていました。そこで知り合ったのが、ティエンというベトナム・ホーチミン市からの留学生です。彼女の身の上話はベトナム南部に住む庶民のベトナム戦争に対する複雑な心情を表しているので、ご紹介させていただきます。


ティエンは、1980年代初めの生まれで当時20代前半でした。彼女の父親は、南ベトナム政府軍の高級将校だったそうです。日本人から見た場合、ベトナム戦争というとベトナムとアメリカとの戦争というイメージがあるかもしれませんが、ティエンの家族にとっては、ベトナム民主共和国(北ベトナム)とベトナム共和国(南ベトナム)との戦争でした。戦っている相手は、ホーチミン主席が率いる北ベトナム軍と北ベトナムの支援を受けたベトナム民族解放戦線(ベトコン)です。南ベトナム政府はアメリカの傀儡政権でないかというツッコミがあるかもしれませんが、少なくともティエンの父親にとっては、敵は北ベトナムの共産主義者です。


ティエンの父親は、当時サイゴンと呼ばれていた現在のホーチミン市の軍司令部にエリート軍人として勤務しており、ティエンの母親はフランス語教師だったそうです。そんな二人に運命の1975年4月30日がやって来ます。
パリ和平協定成立後、アメリカ軍がベトナムから撤退してしばらくすると北ベトナム軍が大攻勢を仕掛けてきました。すると南ベトナム軍の防衛ラインがあっという間に崩壊し北ベトナムの戦車部隊が南へ南へと押し寄せて来ます。北ベトナムの攻勢開始後、わずか2ヶ月後の4月30日に南ベトナムの首都サイゴンは陥落し、サイゴンはホーチミン市と市の名前を変更され、ハノイから来た共産主義者による統治が始まります。現在、4月30日は、「南部解放記念日」というベトナムの祝日になっています。


新しい支配者の統治は、アメリカの援助による繁栄に慣れきったサイゴン市民にとって過酷なものでした。ベトナム戦争中の南ベトナムの上流階級は財産を没収され、その財産は北ベトナム軍幹部に格安で払い下げられました。現在でも、ホーチミン市1区や3区といった中心部の高級住宅地に大きな屋敷が沢山ありますが、その多くはハノイからホーチミン市に移り住んできた軍人や共産党幹部やその子供たちの所有になっています。私は、ホーチミン市でかつての上流階級の子供や孫たちからベトナム共産党に対する怨嗟の声を何度も聞きましたが、このような背景があるのもひとつの原因のようです。
ティエンの父親は、南ベトナム政府軍将校という「反共分子」でしたので、ホーチミン市内から車で2時間くらい離れたクチ地区というジャングルの中にある「再教育キャンプ」に送られ、そこで何年も過ごすことになりました。再教育キャンプの生活は過酷であったようですが、そこは何事もルーズなベトナムのこと、時々再教育キャンプを抜け出しては、ティンの母親とデートを重ねていたようです。やがてティエンの兄とティエンの二人の兄妹が生まれました。


その後、ティンの父親は、元軍人らしい行動力を発揮して、ホーチミン市を抜け出し、小舟に乗ってベトナムを脱出しました。その際、ティエンの兄を連れ、ティエンとティエンの母親はベトナムに残して行きました。この当たりは、ベトナムの男尊女卑の表れではないかと思います。ティエンの父親は、ボートピープルとして無事にベトナムを脱出し、アメリカ、ロサンジェルスに定住することができ、定住後はティエンやティエンの母親との連絡も自由に取れるようになっています。ティエンの父親がどんな思いでベトナムを後にしたのか聞いてみたいと思いますが、ティエンの父親はすでに他界しており、今となってはその思いを想像するのみです。


残されたティエンですが、母親に育てられホーチミン有数の一流大学を卒業後、超難関の留学生試験に合格し、私が住んでいた国の一流大学に留学に来ました。留学に来てティエンは驚きました。周りのベトナム人留学生たちは、ほぼ全員がハノイ出身の政府や共産党幹部の子弟ばかりで、みんな高級住宅地にあるマンションに住んでいます。ハノイ出身の学生たちは、お世辞にも優秀とはいえません。


ティエンは、私にこう言いました。「私は、ハノイ人もベトナム共産党もホーチミン主席もみんな嫌いです。こんなことをベトナムで言ったら逮捕されるけど・・・」
ティエンの言葉は、私の表面的なベトナム戦争に対する知識を超えており、ベトナムに興味を持つきっかけとなりました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?