モンターニュの折々の言葉 369「熊の世界には友情はないが、ゴルフの世界にはそれがある」 [令和5年4月18日]

「道具を多く持っているやつほど下手や」

西岡常一(1908-1995 、法隆寺専属宮大工)

 熊の住む世界は、弱肉強食の世界で、友情というのはありえない世界。お互いに生きるために、しのぎを削る、食うか食われるかの過酷な世界。ましてや、友愛とか、博愛などどこにもない。そうした弱肉強食の世界で生きる熊にとって、人間は友情を信じて、そしてその友情がないとにっちもさっちもいかないようで、これはこれで便利というか、不便な世界だなあと。

 ところで、昨日、やってしまいました。いや、別にホールインワンが出たわけではありません。家を出る前に、芝刈り用のクラブ、そしてシューズ、ボール等など、芝刈りをするための道具や、着替えは鞄にちゃんと詰めて、そしてパスモとスマホを持って、時間にも余裕をもって出かけたのですが、ゴルフクラブのロッカー室で着替えようと、鞄を開けた瞬間、まさかという事態に。

 そう、芝刈りをやるための入場料を払うための肝心要の財布を家に忘れて出てきたのでした。来月の予定を相談するために、手帳と、それから、電車内で読む本(司馬遼太郎「八人との対話」(山本七平、大江健三郎、安岡章太郎、丸谷才一、永井路子、立花隆、西澤潤一)は忘れずに持っていったのに、ゴルフをするために必要なお金を持たずに出かけるモンターニュ、凝りませんねえ。

 幸い、絶対的晴れ男のゴルフ友は、快適な天気をもたらしただけではなく、太っ腹な方で、福沢諭吉を数枚貸してくれて、事なきを得たのでしたが、こういう時、神様はお金を貸した人にご褒美をあげるのでしょう。ゴルフ友はショートホールでピン側につけて、バーディを取って、19番ホールは、その祝杯を挙げる場と化して、またまたご馳走になってしまいました。

 このゴルフ友は、先日ご案内した、マダガスカルのキツネザルのフランス語名を突然思い出した逸話の主人公でもあるのですが、彼が言いたかったことは、自分(A)の中のもうひとりの自分(B)が突然出てきて、「レミュリアン」という単語を発して、自分の窮地を救ってくれたということでした。

 こうした体験は、私たちに時々訪れます。ゴルフでもそうですね。拙書「杢兵衛のゴルフ指南書」でも触れましたが、ゴルファーは、正直者のゴルファー(S)と、嘘つきで見栄っ張りなゴルファー(L)からなっていて、この嘘つきで見栄っ張りなもうひとりの自分が時々悪さをするのです。こうした、自分の二重性というのは、もう少し複雑で、哲学者の鈴木大拙や、あるいは、数学者の岡潔が禅の思想などから説明しております。意識と無意識の二重構造から人の意識はなっているという話ですが、無意識の部分もかなり重層的で、簡単ではありませんが、要は、自我というのは、いわば嘘つきの見栄っ張りな自分で、他方で、真我というのは、正直者で、誠実な自分で、その真我の中には、歴史的に継続されてきた、人類に共通するような普遍的特性が宿っているということ。いわば宇宙的な、永遠的存在としての自分であります。

 この辺は哲学的思考を必要としますので、これ以上は述べませんが、いずれにしても、レミュリアンという言葉を発したのは、意識する存在としての自分ではなくて、意識していなかった、無意識の中にいるもう一人の自分であったということ。これはゴルフで言えば、普段の自分はトリだらけの、煩悩ゴルファーではあっても、時にはパーも取るし、そしてバーディも取るといった、悟りの境地にある、達人的なゴルファーでもあるということを意味する訳です。

 ですから、ゴルフというのは、この悪さをする嘘つきで、見栄っ張りのもう一人の自分を如何にして、抑え込むかが大事で、二人の自分の間の戦いがゴルフというゲームであるとも言えます。ところが、困ったことに、下手なゴルファーに限って、そうした悪さをする自分に支配されて、墓穴を掘る訳です。

 人は、可能性とその限界を如何に認識しながら、日々の生活をどうやりすごすかが問われているわけですが、ゴルフで100を切れない人の最大の課題は、そう、ここなんですね。可能性とその限界を科学的に、正しく、正確に分析・認識し、そして、それに適合した論理的で、合理的な対応ができていないから、できない訳です。

 釈迦に説法ですが、可能性と実現性は違うでしょう。潜在的可能性は大変に大きく、ある意味では無限でありますが、現実性は有限。ゴルフでは、可能性に賭ける人はただのギャンブル好きのゴルファー。他方、上手な人は、現実性に賭ける人。つまり、ゴルフというゲームは、可能性に賭けるというよりも、現実味のあることに賭けるゲームなんですね。ところが、100を切れない人は、この現実味のある選択よりも、可能性のある選択に賭ける、つまりは、本当の自分でない、偽り人間で見栄っ張りなもう一人の自分に洗脳されて、いつまでも正しい選択ができないから、下手であり続けるのでありましょう。

 今日のまとめです。昨日は、私のゴルフの課題の一つである、150ヤードを正確に繰り返し打てることを意識したラウンドでしたが、ティショットはショートホールを除き、すべて7番ウッドで、2打目も7番ウッドか、ユーティリティ(23度)を使い、そして、アプローチは、シャンクが出ないようにアドレスとスイングに気をつけて、サンドウェッジを使ったのですが、スコアは、3番ウッドのティショットの時と殆ど変わらない、クラブの数が多い時よりもむしろ、良かった(パー3個、ボギー10個、ダボ3個、トリ2個)。トリになったホールは、寄せでシャンクが出て、バンカーに入ったりと、結果的にそうなっただけのこと。でも、パーにしろ、ボギーにしろ、ワンパットでスコアを得たホール(5ホール)は、皆一様にアプローチ、寄せが良かった。距離ではなかったということ。但し、シャンクが出るかなと不安感を抱いてやると、不思議に出るもので、この辺はまだまだ改善の余地ありですが、沢山道具を持っているから上手に回れる訳ではないことは証明されました。

 選択肢が増えると、決断に迷いが出ますから、ゴルフに限らず、人生の大事な選択、学校選択、職業選択もそうで、迷います。選択肢は少ない方が、凡夫にはよろしいでしょう。なお、熊は熊としての顔で生きている。熊の顔しかない。ところが、人間は、色々な顔、ペルソナをもって生きている。人間がどんな生き物であるかは、大体分かっている。しかし、ある特定の人間のことは殆どわからないのが現在の知的水準。友達と称される人であっても、その人のことは、殆どわからない。分かっているのは、ある一面だけ。友達として付き合ってきた時間を通してしか、その人のことはわからない。家での顔もあるだろうし、外の顔としての仕事の顔もあるだろうし、趣味に惑溺しているときの顔もあるし、一緒に遊んでいる時の顔もあるでしょう。人は他人の全貌、全人格を知ることは出来ない。

 そんな未知数だらけの人間を、貴方は私の友達なんだから、私のすべて受け入れてくれよ、という人は、私からすれば、どこか可怪しい。まともに思えない。そもそも友達というのは、相手のやろうとしていることが変であれば、それに対して、忠告できる関係でしょう。反対の意見を受け付けないというのは、対等の関係ではないし、友達というのは、少なくともある空間、ある時間においては、平等な関係で、それでないなら、友達とは言えないでしょうね。

 それに、所詮は他人なんですから、他人に過度な期待をいだき、またそれを求めることはあってはならないと思うのです。友達に似た言葉で、仲間という存在があります。仲間は、ある共通の目的のために集まる存在。共通の目的がないならば、仲間とは言えないでしょうが、友達は仲間ではない。仲間は、あることを実現しようという共通の意志を松明として掲げた存在でしょう。それでも、仲間同志が尊重しないといけないのは、個々の意思です。友達というのは、一緒にやるべき目的なり目標がなくても、ただある空間、ある時間一緒にいるだけで、居心地の良い人です。

 熊には、熊なりの生きるという意志はありますが、仲間意識はありません。ましてや友情という感情はありません。熊にはない、友情、あるいは、仲間意識を持つのが人間ではありますが、私の場合、友達と思っている人でも、全人格まで肯定して、すべてを受け入れる存在としてではなく、あくまでも、あることを介して知っている、限定された時間の中で知った人でしかないのです。ですから、過度な期待も抱きません。無理難題も押し付けません。

 そうした熊のモンターニュですが、熊の世界にはない友情というものがゴルフにはあることだけは知っているのです。どうも失礼しました。


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