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034 田原俊彦「It's BAD」(1985年)その2

作詞:松本一起 作曲:久保田利伸 編曲:船山基紀

前回からの続き。今回は想像だらけです。

そんな頃、音楽業界で話題になっていたデモテープがありました。通称"すごいぞテープ"と呼ばれていたそのデモは、まだ歌手デビュー前だった久保田利伸が趣味的に作ったものでした。そこには、後に久保田の1stアルバム「Shake It Paradise」(86年)で世に出るオリジナル曲のほか、ソウルや全米ヒットのカヴァーなどが収録されていました。その中に「It's BAD」も収録されていました。

ここで疑問だったのは、趣味でこのクオリティのものが作れるのだろうか?ということ。この時代、これだけのものを作ろうと思うと、スタジオに入らないと無理なはずなんです。実は、久保田は作家契約と同時にアーティスト契約もしており、もちろん久保田自身も作曲家になるつもりなど毛頭なく、自分のために曲を書いていたわけです。なかなかデビューが決まらず苛立つ久保田の不満を解消するために、事務所はスタジオを用意。久保田がそこで自由に創作活動を行ったその結果が"すごいぞテープ"なのでした。そんなわけで、「It's BAD」も元々は久保田自身のレパートリーとして作られたものだと思います。

そうなると気になるのが、田原盤との違いです。この曲が出来上がる工程を想像してみましょう。まず、久保田が曲を書き、デモを制作します。この時点で久保田が書いた別の歌詞が乗っていたか、または歌詞はなくスキャット程度だったかもしれません。田原からの依頼には、このデモを聴かせたのでしょう。"すごいぞテープ"の中に「Olympicは火の車」の原曲が収録されていないことも、別のデモが存在する根拠になるでしょう。

松本一起への作詞依頼は、田原版の制作時に行われたと思われます。松本はプロの作詞家ですから、久保田と組んで自主的な創作活動をしていない限り、発注もなく歌詞を提供したりしないでしょう。そうやってまず田原版が完成するのですが、あくまでも"アイドル歌謡"として成立する必要があります。そこで白羽の矢が立ったのが、船山基紀でした。

船山による田原版のアレンジには、いわゆるラップ・ミュージックの定番であるループするトラックはありません。ラップパートのバックのスネアの音にはディレイが大きめにかかっており(実音かも?)、これはなかなか珍しい処理です。当時はまだラップとはなんぞや?という時代ですし、前例も何もないので、これは船山オリジナルのアイデアかもしれません。後に出る"すごいぞテープ"の久保田版でも当時流行っていたゲートリバーブがかかっていますから、デモですでにそうなっていたものを聴いた船山がアレンジしたのかもしれません。結果、アッパーでファンキーな歌モノ感覚のラップ歌謡ができたわけですが、あくまでもプロトタイプ的な仕上がりであり、ここでラップに対する対策が見つかったわけではなさそうです。現に、以降、歌謡曲の範疇でラップをフィーチャーした曲はC-C-B「ないものねだりのI Want You」(1986年)くらいしか見当たりません。

さて、久保田版です。まず、田原版と比べて、リズムを強調した作りになっています。サビの最後の8小節がオミットされているのは、ここが歌謡曲的なABCの構成を解決する部分だからでしょう。つまり歌謡曲臭さを排除したかったんだと思います。ラップも含めて、歌というよりもリズムで構成された作りにしたかったのではないでしょうか。

歌詞はラップパートがすべて田原版とは別モノ、ヴォーカルパートは同じという作りです。"すごいぞテープ"の作者クレジットが不明なので判断が難しいところですが、ラップは久保田自身が書いたものと想像します。もちろん、ラップ部分の別ヴァージョンを松本に発注した可能性もあります。そして、これが"すごいぞテープ”に収録されたヴァージョンとなります。

久保田は87年に「夜のヒットスタジオ」のマンスリーゲストに抜擢された際にこの曲を披露しているのですが、そのときもこの"すごいぞテープ”のヴァージョンで演奏しています。そこでのクレジットは、作詞:松本一起です。まぁ、テレビなので、田原版のクレジットをそのまま流用してる可能性もありますが。

実は、この曲を作った頃の久保田は、まだラップというものをそれほど理解していなかったようで、この曲はとりあえず作ってみたという程度のプロトタイプ的なものだったようです。そして、久保田自身のラップは、デビューシングルの「失意のダウンタウン」で早々に披露することになるのですが、このラップが挟まれた場所がギターソロ的と言うか、2コーラス目が終わってサビに戻る前という場所。なんというか、旧態依然としたスタイルの中に無理矢理ラップを押し込めたような印象で、これは久保田自身が意図するものだったのかどうか。

僕の想像としては、「It’s BAD」も「失意のダウンタウン」も、初のラップ歌謡と自身のデビュー曲という記念碑的な曲ではあるんですが、久保田自身は特別視してはいないんじゃないかという気がするのです。もしかしたら、歌謡曲に寄りすぎた、歌謡曲に取り込まれたとして、あまり気に入っていないんじゃないかとすら感じてしまいます。

アメリカでは85年のホイットニー・ヒューストンの登場以降、テディ・ライリーのニュージャック・スウィング、MCハマーの空前の大ヒット、マライア・キャリーの衝撃、メアリーJブライジのヒップホップソウルと、80年代半ばから90年代頭にかけて、(その是非はともかく)、ブラック・ミュージックの世界が一気に変わります。遠く離れた日本で、その変化と並走していた唯一のメジャー・ミュージシャンが久保田利伸でした。とにかく、次々に新しいスタイルが出てきて、時代が更新されていくその真っ只中、久保田は現在進行形のブラック・ミュージックの(ファンキーな)ビートと日本語で歌っても歌謡曲にならず、しかし先鋭的すぎない、そのギリギリのラインを常に狙っていたのではないかという気がします。常に前を見ている久保田にとって、「It’s BAD」はそれほど意味のある楽曲ではなかったのかもしれません。

ちなみに、「It’s BAD」にはSUE CREAM SUE(米米クラブのコーラス隊)によるカヴァー・ヴァージョンがあり(86年11月)、こちらはシュガーヒルなどのオールドスクールな音を意識したと思しきアレンジ(杉山卓夫が担当)で、ラップはより本格的。これもまた歌詞違いで、やはり松本一起が担当しています。

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