007_愚か者

007/近藤真彦「愚か者」(1987年)

作詞:伊達歩 作曲:井上堯之 編曲:戸塚修

今回はなげーよw

先日、SNSで「レコード大賞」の話題になりました。なんでDA PUMPじゃないの、いやそういうのは昔からだよ、ってな他愛もない話のはずだったんですが。
そういうところに絡みついてくる人っているんですよね。議論ならともかく、相手を言い負かしたいだけの人。だから、こちらの書くことは全否定だし、おまけにロクな知識もないので、最後は言い返せなくなって捨て台詞吐いて逃げました。おまけに自分の発言だけ全部削除して。恥ずかしいなぁ。

で、その人がネタに出したのが、87年のレコード大賞で、オリコンの年間ランキング35位に過ぎなかった近藤真彦「愚か者」が大賞を受賞したのはおかしいということ。おかしいと思うことには異論はありません。実際、授賞式の直前にマッチの母親の遺骨が盗まれ、<レコード大賞を辞退しろ>という脅迫状が届いたなんて事件もありました。ただ、この年はその理由がかなり説明がつくというか、ある意味では妥当な一面もあるのです。それをつらつらと説明したのですが、悪くないネタだったので、加筆しつつこちらにまとめてみることにします。

まず、オリコンとレコード大賞は関係ないですよね。オリコン・チャートってのは、(建前上は)レコード売上(当時は出荷枚数)をランキング形式にしたものであって、いち企業のコンテンツに過ぎません。このくらい売れているという指標にはなるかもしれませんが、オリコン何位だからレコード大賞にするとかそういう基準にはなり得ません。

そして、この87年という年は、驚くほどビッグヒットが出なかった年なんです。1位(以下オリコンのランキングより)は瀬川瑛子「命くれない」で42.2万枚。歴代1位の子門真人「およげ!たいやきくん」(75年)の457.7万枚と比べると、10分の1以下。もちろん、ミリオンセラーなんかそうそう出る時代じゃないですが(多くても年に2~3枚程度)、この42.2万枚という数字は、例年なら20位前後の数値です。「命くれない」は86年のリリースなのですが、最初は鳴かず飛ばずで、有線でのヒットから徐々に売り上げを伸ばしてきたという典型的な演歌のロングセラー盤です。ちなみに、このヒットは翌88年まで続きます(88年も年間で20位)。

さて、そんな年に35位だったマッチの売り上げ枚数は、21.6万枚です。1位とは倍の差があるとはいえ、20万枚って、今だったらAKBが1日で売り上げる枚数です。そういう意味で、その20万枚の差が、ヒットの肌感覚としてどのくらいの違いを生むのか。僕はそれほど違いがあるとは思いません。

分かりやすく80年のランキングと比べてみましょう。80年は1位がもんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」(156.3万枚)。2位が久保田早紀「異邦人」(140.4万枚)。3位がクリスタル・キング「大都会」(118.0万枚)というミリオンセラーを3曲生んだ年です。その年の35位はオフコース「Yes, No」(35.4万枚)。確かに名曲ではあります。しかし、肌感覚ではどのくらい流行ったかを考えてみると、まるで違いますよね。
では、「ダンシング・オールナイト」と「異邦人」のどっちが売れたのか、16万枚の差は肌感覚に現れるでしょうか?「異邦人」と「大都会」の22万枚の差はどうでしょうか? そこまでハッキリ優劣はつけられないはずです。

20万枚程度の売り上げの差は、肌感覚としてどっちの枚数が上かなんてハッキリ分かるほどではない。もっとも、ポップスとロングセラーになっている演歌では比べるのは難しいですが。1位から35枚の間に33枚のレコードがありますが、どれもどんぐりの背比べのような状態だったといっていいでしょう。しかも、この年は大きな話題作がないのです。この時点で、87年の年間35位を根拠にレコード大賞を否定できないことは理解できると思います。

さて、ではなぜマッチが選ばれたのでしょうか。この年は、明菜、瀬川瑛子、マッチ、五木ひろしが最終候補に残り、最終的には五木ひろし「追憶」(これも名曲ですね…)とマッチの一騎打ちになったようです。話し合いでは決まらず、投票でマッチに決まったと言われています。

まず、瀬川瑛子「命くれない」が落ちたのはなぜか。これは単純に、86年、前年のリリース曲だったからでしょう。

次に落ちたのは中森明菜。実は、87年は明菜の一人勝ち状態だったんです。「TANGO NOIR」「難破船」「Blonde」と年間チャート10位以内に3枚もランクイン。しかし、「レコード大賞」では、85年に「ミ・アモーレ」、86年に「DESIRE」とすでに2年連続で大賞を受賞しています。さすがに3年連続はないだろうという判断が働いてもおかしくありません。いや、おかしいんですけどね。それと、楽曲が以前に比べ小粒、というか大衆性が低かったことも理由でしょう。

もう1つ、ノミネートにも至りませんでしたが、光GENJIのデビューというのは大きな話題でした。しかし、デビュー曲の「STAR LIGHT」って売れはしましたけど(年間4位)、話題性はそこまでじゃなかったんですよ。大ブレイクと呼べるような話題になったのは次に出た「ガラスの10代」あたりからですが、これは87年11月のリリース。賞レースは翌年が対象でした。そして、88年に「パラダイス銀河」でレコード大賞を受賞するわけですね。尤も、「STAR LIGHT」がノミネートされても、新人賞が対象だったでしょう。

では、なぜマッチだったのか。ここからは想像も含みます。
まず、「愚か者」という曲がショーケン(萩原健一)との共作となったこと。これはけっこう話題になりましたね。その作曲者が井上堯之だったこと。もちろん、ショーケンと井上堯之はPYG時代のバンドメイトであり、これが後の井上堯之バンドに繋がっていきます。楽曲的にも、いわゆるアイドル的な軽いポップスではなかったところも、評価されたんだと思います。

あと、ジャニーズ事務所が”頑張った”んじゃないかと。今でこそ強大な権力をもつジャニーズ事務所ですが、たのきんトリオが出てくるまではごく普通のタレント事務所程度の力しかありませんでした。しかし、田原俊彦、近藤真彦、少年隊と大物タレントを生み出し、その存在が大きくなっていったのがこの時期だったはずです。なぜなら、この頃までは音楽性やレコードとしてのクオリティも重視されていた中で、88年に光GENJIが大賞になったことは、レコード大賞の歴史の中でも異色だったからです(ただし、視聴率の伸び悩みから、方向転換した節もあります)。結果、「愚か者」はジャニーズ初のレコード大賞を受賞します。

あと、マッチはこの前年あたりから大人路線に転換してるんですが、それに伴って、売り上げが落ちました。そんな中でも久々にアタリだったのがこの「愚か者」なんです。マッチ健在をアピールするためにも、事務所は"頑張った"と思います。実際、この曲はマッチの代表曲の1つとして根付いていますし、売り上げ枚数以上のインパクトがあったことは間違いないでしょう。

あともう1つ、この年は少年隊がマッチ以上の活躍を見せていたんですが(「君だけに」がこの年です)、受賞はしませんでした。もし裏で事務所が動いていたとするならば、そりゃ先輩よりも先に受賞はないですよね。

とまぁ、後半は想像も込みなので異論もあるでしょうが、だいたいこんなところなんじゃないかと思います。
この時代のレコード大賞って、選考委員の中にもまだまだ偏見というか、レコード大賞の性格的なものがハッキリあって、軽いアイドルポップスはNG、ニューミュージック系もNG、よく言われているように外国産の曲はNG、ロックバンドなんか論外(優秀アルバム賞には反映された)。そんな中でマッチの受賞は、賞の性格を変えていくきっかけになったのかもしれません。

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