板垣 崇志@しゃかいのくすり研究所&るんびにい美術館

岩手県花巻市で農家の長男として生まれ、マンガを描き続けた子ども時代、大学で脳の研究のの…

板垣 崇志@しゃかいのくすり研究所&るんびにい美術館

岩手県花巻市で農家の長男として生まれ、マンガを描き続けた子ども時代、大学で脳の研究ののち美術家を経て「るんびにい美術館」ディレクター。並行し2020年「しゃかいのくすり研究所」を設立。Offiial WEB→https://www.shakaino-kusuri.com

最近の記事

あなたは、子どもにとって「信じるに足る大人」か?――「生きる」という表現を守ること

11月29日に盛岡で開かれた、子育て研修会の講演で話したことの要旨をまとめてみました。 言葉を三つしか話せないならば、三つのことしか考えていない、三つのことしか思っていないということ…?そんなばかなことはありません。子どもたちを未熟だとみくびったら大間違いを犯すことになる。 魂は、生まれてきた時からすでに完全なもの。そう思って、子どもを敬うべき。ただ、魂には眠っている部分が沢山ある。それを目覚めさせるのが、経験。導き手としての大人が担うべき役目は、目覚めを誘うこと。子ども

    • 青森県でのアート支援コンサルと研修②

      今回の青森訪問で、ある利用者さんとの出会いが心に残りました。 だいきさん。発語はなく、かつては自身が大けがを負うほどの激しいパニックも頻繁にあり、ご本人も、事業所としても厳しい道のりを経て来たそうです。彼の体に残る傷跡からも、その苦難が偲ばれます。 彼の机の上に、〇がいくつも描かれた二枚の紙がありました。 一枚は赤のクレヨンで四つの丸。 もう一枚は数色のサインペンで六つの丸。 〇は、彼の描ける唯一の形なのだそうです。職員の方が「お手本で〇×△□の四つの形を書いた紙を

      • 青森県でのアート支援コンサルと研修①

        継続的に伺っている、青森県での仕事。平川市の社会福祉法人ほほえみさん、五所川原市の社会福祉法人あーるどさんの2つの法人へ、アート活動コンサルと職員研修をセットにした訪問です。 コンサルと研修を重ねた2年のあいだに、「表現の場が懐深い温かい場に、『ゆるす』空気の場になってきた」というお話を伺ってとても嬉しかった。その空気感は、現場で私にも分かりました。湯治場のような、ミルクのようななんとも言えない空気。気持ちいい。 今回の研修では、 アート支援は作品を成果物として得ようと

        • 「しつけ」という名の「強者の卑劣」

          しつけを騙って、親が子どもを死なせる事件があった。 どの事件と言う必要もない。何度も何度も同じことが起こるから。 その母親が持つ背景を僕が知るべくもなく、痛ましい死に至る前にこの母親がまず救われるべきだったということもあり得るんだろうと思う。 ただ、ここでも使われている「しつけ」という言葉の存在そのものが、はるか昔からこういう痛ましい事件が無限に起こり続けるのを助長してきたのではないか?という問いを、誰か否定できるだろうか。 僕は「しつけ」という言葉から、妥当性や正当

        あなたは、子どもにとって「信じるに足る大人」か?――「生きる」という表現を守ること

          「埋もれた才能」と呼んで「発掘する」、その尊大と暴力性

          自分がこの文化芸術に関する政策指針の策定に関わるにあたって、一番実現したかったのは「もの言えぬ作者の尊厳が守られる指針にしたい」ということでした。 国の政策の後押しもあり、〈障害者の芸術〉の支援や社会的な活用は全国的に活性化する流れにあります。そうした大きな潮流の中、芸術や文化の美名の下で、もの言えぬ作者の本当の思いに誰も気づかないうちに密やかに土がかけられる――そういうことが起きないよう牽制できる指針にしたかったのです。 岩手県文化芸術振興審議会という、県の文化政策の諮

          「埋もれた才能」と呼んで「発掘する」、その尊大と暴力性

          火種を預かる人たち

          人の文化と文明は時代を経るほどに、より巨大で高度で入り組んだシステムになり続けた。人間が求めるそのベクトルは、私たちに刷り込まれているものらしく一貫して変わることがないようだ。そして、そのベクトルがどれほど伸展しても、時折有無を言わせぬ巨大な力で引き戻すのが「自然」だ。その力は、今回はウィルスの姿で私たちの社会を訪れた。 人が住まなくなった家には草が生えやがて木が生え、再び森に帰ろうとする。私たちの世界では、いつもそのような力がすべてにわたって働いていることを、ふだん私たち

          なぜ「時間の外」には出られないのか

          みなさんは、なんで時間の流れの外に出られないんだろうって思ったことはないですか?僕は子どものころ時々不思議に思ってました。何とも気持ち悪いような、もどかしい感じ。 ジョジョではね、Dioとか空条承太郎が時間の流れの外に出たりするんですよね。ああいうこと、なんで出来ないかなあって、思ったことないですか。 今回は、時間の外に出られないのはどうしてか、っていう話です。 僕は今年「しゃかいのくすり研究所」っていう活動を立ち上げて、いまそのホームページとか準備してるんですが、先立

          命ってどこにあるのでしょう。

          命ってどこにあるのでしょう。 私の命とあなたの命は、別の命なのでしょうか。 別の命ならば、二つの命の境目は、どこにあるのでしょうか。 生きるものの数だけ、命の数があるのでしょうか。 三人の命は、四人の命より少ないのでしょうか。 アリの命より象の命のほうが大きいのでしょうか。 だとしたら象の命より人間の命は小さいのでしょうか。 私が生まれたとき、この宇宙に命が一つ増えたのでしょうか。 私が死ぬとき、この宇宙から命が一つ減るのでしょうか。 花は命があるけど、石には命がな

          「自分がされて嫌なことを人にしない」は簡単か

          「己の欲せざるところは人に施すなかれ」。自分がされて嫌なことは、人にもやらないように。「論語」の中にある、孔子の有名な言葉だ。 傷つける。脅す。いじめる。虐待する。命を奪う。あるいは、より規模の大きな搾取や弾圧、武力行使などなど。人が人を苦しめる行為の形は、数え上げれば果てしもない。 「自分がされて嫌なことは人にもしない。」あなたはところで、これを難しいことだと感じるだろうか。寄付や奉仕を求められるわけでもない。ただ一つ、「自分がされたら嫌なこと」を、他人に「するな」とだ

          「自分がされて嫌なことを人にしない」は簡単か

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          いつのまにこんなに夏が

          雑感 同じと違うの間

          リンク先記事への雑感、連想として。   同質の囲い込みと、対立項への攻撃。しばしば、それは人が単独の存在としての自分の脆弱さを自覚しているからこその、本能的な反応と思う。   たとえば、自分の矮小さに押しつぶされないために、自分を強大な権力者、あるいは大きな国家と一体視することで不安から解放されようとする人がいる。自分の存在理由の保証をそれらに託しているため、当該の権力者や国家の権威が揺るがされては堪らない。それらへの批判には過剰に攻撃的に反応する。   そういった巨大なアバ

          サンタクロースは本当にいる、ということ。

          サンタクロースって、本当は誰だろう。 サンタクロースは、本当はどこにいるんだろう。 毎年クリスマスの時期、そんなことを考えていました。 本当に、白ひげのおじいさんなのでしょうか。 本当にフィンランドとか、北極の近くに住んでいるのでしょうか。 トナカイが引くそりで、空を駆けてくるのでしょうか。 それならそれでもいい。 本当にそうなら、もちろんそれでいい。 けれど、本当のサンタの姿は、やっぱり目には見えないような気がするのです。そして目には見えないけれど、確かにいる。サン

          サンタクロースは本当にいる、ということ。

          くもがきらいな人に読んでもらえたら。

          (くもがきらいな人に読んでもらえたら、と思って書きます。) 「あ。あれは卵?」玄関ポーチの天井に目を止めた妻が言った。 「ほんとだ。卵だ。生んだんだね。」言われるまで気づかなかった。 夏からうちの玄関前に立派な巣を作っていたじょろうぐも。秋までの間、様々な虫を捕らえて食べ、その体はずいぶん立派になった。 そして11月。つい先日まで放射状にしっかり張られていた網が、いつしかあちこち千切れて風に揺れていた。修繕するのをやめたらしい。 こおろぎの声もだいぶ前に途絶えた。巣に

          くもがきらいな人に読んでもらえたら。

          学校教員の皆さんとインクルーシブについて考えた

          昨日は岩手の学校教員の皆さんと一緒に、インクルーシブ教育について考えました。岩手県教職員組合、岩手県高校教職員組合の合同学習会にて。 「インクルーシブ教育」? 一般にはまだなじみの薄い言葉かもしれません。心身の障害など多様な特性を持つ生徒たちが、隔てられることなく同じ場で学ぶことを促進する教育のあり方。そうした多様性の理解を促す教育。 生徒の特性を理由にした不公平が生じないよう、適切で柔軟な対応を講じること(合理的配慮)が求められます。 学習会会場の岩手教育会館 午前中

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          気になっていた「馬のお墓」を見つけた。

          盆に花巻の実家に帰りました。 実家は農家。 墓参りは四か所。明治あたり以降の人たちのお骨が納められてる共同墓地の墓と、それより前の人たちが埋葬されてる家のそばの古い墓、あとは実家にいたニャンコやワンコたちの墓、そして「馬墓所(うまはかどこ)」と呼ばれてる馬の共同墓地に、順番にお参りします。 初代の人のお墓。元文という年号、1730年代あたり。近くの大本家から隠居して分家したとのこと。元をたどると武田家に仕えていて、その滅亡と共に甲府から逃れて来たらしい。 地域の馬の共

          気になっていた「馬のお墓」を見つけた。

          美術家が美術家をやめて見えた「命のよろこび」

          私はかつて美術家として活動し、作品制作と発表を行っていた。しかし自分が身を置き、自身もそこでひとかどの者になろうとあがいていた「美術」の世界に対し、なぜかずっと違和感が消えなかった。自分を「画家」や「美術家」と名乗るときも、それが自分になじむ感じが無かった。 その理由の幾つかが、10年前に絵を描くことをやめたとき明らかになっていった。たとえば、自分にとって絵を描くという行為が、他者からの評価を得ることを常に意識した、不自由なものになってしまっていたということ。 あるいは、

          美術家が美術家をやめて見えた「命のよろこび」