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障害者という名の人など、この世界には存在しない。

あなたの名前は、何とおっしゃるだろう。周りの人たちはあなたを名や名字で呼ぶだろうか。あるいは愛称で?

私は中学生の時、教師から「メガネ」と呼ばれたことがあるのを覚えている。言うまでもなくそれは私の名ではない。しかし彼女は私のことを、私の顔に乗っかっている器具の名で呼んだ。当然ながら私は非常に不愉快だった。

あなたが○○県生まれだとして、よその都道府県に引っ越したとする。すると新天地であなたに付けられたニックネームが「○○県人」だったとする。いかがだろうか。事実で、何もネガティブな意味ではない。だとしても、あなたはその呼び名でいい気持ちになれるだろうか。

私たちは自分の名以外で呼ばれた時、しばしば自分の尊厳が傷つけられたように感じるものだ。この時、私たちの何が失われ、損なわれているのだろう。

あなたという存在全体からすれば、他者から見える要素など氷山の一角に過ぎない。容易に見えない場所にこそ、あなたをあなたたらしめるものが膨大に秘められている。出来事、記憶や感情、思い。世界中であなたの中にしかない、無二のものだ。

だが、あなたが名前ではなく属性で呼ばれる時、こうしたもののほとんど全ては無視されている。その時損なわれているのは、「あなたがあなたであること」のほとんど全てと言っていい。自身の無二性そのもの、言わば存在の「かけがえなさ」が丸ごと抜け落ちているのだ。人を属性で呼ぶことは、それほど暴力的だ。

若者は、老人は、日本人は、中国人は、役人は、富裕層は、同性愛者は、被災者は…。まことしやかに語られるこうした主語。一体、それはどこの誰のことを言っているのだ? そんな主語で本当の事実など語れるわけがない。

「障害者」という属性で人が呼ばれることもある。

3年前、私は仲間を募り、ある取り組みをスタートした。人の無二性を発見する体験を届ける、学校への出前授業だ。この授業の最大の特色は、知的な障害の当事者が講師を務めること。講師の第一号は、小林覚(さとる)さんという青年だ。

盛岡大学にて、小林覚さん。

私たちは普段、彼を「覚さん」と呼んでいる。覚さんは釜石市鵜住居(うのすまい)の出身。知的な障害と自閉症スペクトラムの障害があり、他者との意思疎通には大きな困難が伴う。

だが覚さんと日頃親しく接する私たちは、表出され難いけれども、とても豊かな心の動きが覚さんの内に確かにあることを知っている。

授業で伝えるのは、講師自身の無二の人生の物語。小林覚という人がどう生きて来たか、誰と生きて来たか。そして心の中にはどんな思いや意思があるのか。

講師は言葉を操ってそれを伝えることはできない。代わりに、彼は生徒たちの前で絵を描き、自身の感性を伝える。あるいは、彼の家族が思い出を語るインタビュービデオや、幼い日の彼のさまざまな表情を写真で見せる。外側からは見えない彼の心、彼が重ねてきた時間、彼につながる人たちとの絆を伝えるのだ。

授業の開始時、少なからぬ生徒の表情には戸惑いが見て取れる。あるいはそれを隠すようなあいまいな笑みが。しかし、授業が進むほどにその表情はどんどん変わっていく。ワクワクに見開かれた目、心からの笑顔。あるいは覚さんが体験した痛みに寄り添う沈痛なまなざし。

授業の様子を、家で親に熱心に話したという生徒。あるいは授業から数週間たっても「覚さんの絵ってまだ学校にあるんですか?」と教師に尋ねる生徒。皆、自分が出会った青年を「覚さん」と呼ぶ。

障害者という名の人など、この世界には存在しない。いるのはこの世にただ一人の「人」だけだ。生徒たちはその事実を発見する。

授業を届けることだけが目的ではない。このような授業手法をモデルとして確立し、それを普及させることが真の目的だ。現在青森、秋田、宮城でも、この出前授業を開始すべく準備を進めている方たちがいる。「私たちもやってみたい」という同志を募りたい。

出会いによって、多くの少年少女たちが人間の無二性を知る人として成長していくことを願っている。




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