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【アウトサイダーでいいじゃない】


「みんな」という言葉が嫌いだ。「みんな」には顔がない、名前がない、思考がない、言葉がない。結局、誰だかわからない。

みんなが言っているから、みんながしているから。
いつのまにか私たちは、そんなみんなの仲間になろうともがいている。みんなと一緒がやっぱり安心だ。はみ出したら恥ずかしい。目立っちゃいけない。余計なことは言わない。だって、みんなに何を言われるかわからない。おっかない。けがをするかもしれない。小学校の頃からそう教えられてきた。みんなといっしょ!

社会に出て、大多数を「世間」と呼ぶらしい。数の論理で、そこに入れない少数は仲間はずれ。はみ出し者、ヘンな人、馴染めない人。全部まとめて「アウトサイダー」。物を書く人も含めてアーティストなんて大抵、アウトサイダーだ。

世間に対する違和感。そこからくる疎外感や葛藤。それを埋め合わせるかのように繰り返す自己表現。上手い下手という話じゃなくて、とにかく溝を埋めることで、かろうじて世界とのバランスを取って生きている人。表現手段も言葉、音楽、絵画、自分が得意なことは人それぞれ。

子供のころから、みんなに馴染めなかった。仲間はずれだった。一人で遊んでいるほうがよかった。社会に出ても変わらなかった。挨拶のしかたは覚えた。少しは社会との接し方は学んだし仕事の仕方も覚えた。けれど世間に違和感をもち続けて生きている。そんな人は少なからずこの中にもいるはず。

しかし、最近思う。苦労してみんなに馴染むことはそれほど大事なことなのかって。むしろいまのままでいいんじゃないかと。

なぜなら、今の世界が正しいとは全然思っていないから。逆に、世界に示唆を与えたり、人間のありかたを気づかせてくれたのは、いつの時代でも少数のアウトサイダーではなかったのかと思うから。

アウトサイダーは、みんなの当り前を当り前と感じていない。そこに発見があったり、みんなにはわからない本質を見抜く人もいる。数の論理ではないし、等価でもない。

アウトサイダーは外側からみんなをウォッチする位置にいる
大多数を大きな円としたら、少数派のアウトサイダーは小さな円。それを横に並べるのではなく、大きな円の円周をアウトサイダーがタマゴの白身や殻のようにぐるりと取り囲んでいるイメージ。殻がないとタマゴが成立しないように、アウトサイダーがいないと世界も成立しない。

アストサイダーは大きな円の外側を囲んで、中の人をよーく見て、ある時は、拍手を送り、ある時は間違っちゃダメだよって発信する。いわば見守り役割。ウォッチャーです。

いま、世の中は変わってきた。大多数の論理が破綻してきている。これでいいのかなと思う人も私に限らず少なからずいると思う。

そう、これからの時代は、アウトサイダーが活躍できる世界かもしれない。

私たちが大多数になる・・なんて夢みたいな話だけど、そう信じて、相変わらず世界に違和感をもちながら、アウトサイダーであることを誇りとして生きていこうと思う。

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