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明日死んでも後悔のない生き方を選ぶ【フリーライター・佐々木里美さん】

人生は選択の連続です。ご飯は何を食べようか、仕事は何から取りかかろうか、パートナーと明日はどこに行こうかなど。大小関係なく、一度決めた選択は巻き戻せないからこそ、悩み考え、時に立ち止まります。

選択は一度きり。だからこそ、選択にはその人の人間性や考え方が表れる。Choiceはそんな選択の瞬間を記事にすることで、その人の生き様を表現します。そしてその人の生き様は、同じ境遇や近い選択を迫られている人の道しるべとなる。そう考えています。

Choice最初のインタビュイーはフリーランスライターの佐々木里美さんです。ライターになる前は公務員だった彼女。子どもの頃に目指していた職業は医者でした。そんな彼女がなぜフリーランスのライターになったのか。たどり着くまでの『Choice』を紐解きます。

佐々木里美さん(フリーランスライター)
1995年6月生まれ、青森県八戸市出身。大学時代を横浜で過ごし、卒業後は新潟へ。県庁職員として東日本大震災や中越地震復興の業務に携わる。退職し、2020年7月フリーライターへ転身。noteやSEO、メルマガ、企業アカウントの中の人など幅広い媒体、ジャンルで企画立案から執筆まで行う。趣味は美味しいビールを飲むこと。(Twitter :@3103_satomi_06


【Choice1】本気で目指した医者になるという夢を諦めた

子どもの頃に過ごした自然豊かな場所の一枚

――子どもの頃から医者を目指していたということですが、なぜ医者を目指そうと思ったのでしょうか。

私は2歳くらいの時から母親がいなくて、おばあちゃんに育てられてきました。おばあちゃんは持病を煩っていたので、子どもながらに病気を治してあげたいと思っていました。それが医者になりたいと思ったきっかけですね。

物心ついた時からずっと「自分は医者になる」と決めていたので、他の職業を考えるという選択肢がなく、大学受験の時まで他の仕事は考えたこともなありません。

中学生の頃、医者になるために一定以上のレベルの高校に入る必要があったのですが自分の学力では難しい状況でした。目標としている高校に受かるためには、現状の偏差値を30~40くらいは上げないと届かない状態だったんですよね。とにかく必死でやるしかないと猛勉強しました。

私の性格でもあるのですが、昔から自分にハッタリをかけるところがあって「もう絶対受かるから全然大丈夫!」みたいなことを何の根拠もなく言い続けるんです。言葉にしたことは実現する。その時から“言霊”の力を信じていて、受かると思ったり、実際に周りに話したりすると絶対に受かると本気で思っていました。一度言葉にすると後にも引けないし、サボれなくもなって、その結果、頑張るしかなくなるんですよね。

――確かに。思っているだけでなく言葉にするとやるしかなくなりますね。

そうですね。きっと自分の頭にもすり込まれるし、周りから無言のプレッシャーも感じるし、いい意味で逃げ道をなくせたのだと思います。

絶対受かると思っているから滑り止めも受けない気でいて、それくらい潔くいることが自分としてはかっこいいとも思っていた節があります。それに、滑り止めを受けるとなればもっとお金が必要になります。私立の高校だと受験だけで数万円もかかるので、それをおばあちゃんに払わせたくないと思ったことも大きかったですね。

今思うと、受験に落ちていたら高校すら行ってなかったかもしれません(笑)。でも頑張った結果、合格者の平均くらいまでは持っていけたのでよかったです。

――当時の勉強は辛かったですか。

めちゃくちゃ楽しかったです。元々、勉強はゲーム感覚で取り組んでいたこともあって好きなんですよね。

ご飯、お風呂、トイレ以外はずっと机で勉強に向かっていました。毎日睡眠時間も2~3時間くらいで、こたつでそのまま寝てるとかも結構ありましたね。登校中、歩いてる時にも何かしらの本を読んでいるか英単語帳を見ていました。

――高校へ進学して以降のことを教えてください。

医者を目指して頑張っていたのですが、医学部への進学を諦めることにしました。

――それはなぜでしょう。

どこの大学の医学部を受けようか考えた時に「私はなぜ医者になりたいのか」と、ふと思ったんです。

「おばあちゃんを治すために医者になりたいと思った」というのは先ほどお話した通り間違いないのですが、おばあちゃんは私が中学3年の時に亡くなりました。

治したいと思っていたおばあちゃんがいなくなっても、医者になりたいという気持ちは少しも変わりません。ただ今思うと、それは変えたくなかっただけかもしれないと思います。

受験の時はまだ本気で医者になりたいと考えていたはずが、時が経っていくにつれて、だんだんと「おばあちゃんはもういないのに、なんで医者になりたいんだろう」と考えるようになりました。

いつのまにか医者になりたい理由が「子どもの時からなりたいと言い続けてきたから」になっていると感じたんです。ただ漠然と医者になりたいという気持ちだけが残り、本当にこれでいいのかと考えた結果、医学部に進学するのをやめる決断をしました。

【Choice2】思考の言語化から知った文章の力。ライターというとして生きていくことを決めた

ライティングだけでなくSNSの運用も得意

――自分がこれまで必死で積み上げてきたこと、それをやめるのはとても勇気のいることだったのではないでしょうか。

「私といえばこれ」というのがあって、一度、形作られると途中で諦められなかったのかもしれません。やめてしまうと、自分の全てがなくなってしまいそうで恐かったですね。

結局その後、医学部とは関係ない横浜の大学に進学したのですが、卒業した後のことを考えても何も思いつきませんでした。本当に医者になることしか考えてなかったので。

あまりに思いつかなくて、大学3、4年生の時に「やっぱり、もう一度医学部を目指そうかな……」と考え、大学の勉強と平行して医学部の受験勉強も再開したくらいです。でも結局、医学以外の職業を探すことから逃げていただけで、前に進んでいる気がしませんでした。

大学卒業までにこれだというものは見つけられないまま、卒業後は新潟へ引っ越し県庁職員として働き始めました。働きながらも自分の気持ちのモヤモヤは晴れず、喉の奥に何かがつっかえたような違和感を抱きながら過ごします。

そして悩み続けた結果、自分がなぜ医者になりたかったのかを深く考えて言語化してみようと思いました。子どもの時に作った目標だったとはいえ、本気でなろうとしていたのは間違いなかったことです。本気で取り組んでいたことの「なぜなりたかったのか」を、徹底的に考え抜いたら何か未来へのヒントがあるかもしれない。そう考えたんです。

おばあちゃんが亡くなってもなぜ私は医者になりたかったのか、その問いに対する答えを言語化した時にまず出てきたのが「お金を稼ぎたいから」でした。なぜお金を稼ぎたかったかというと、恩返ししたい人がたくさんいたからです。

おばあちゃんをはじめ、いろんな人が親代わりとなって私を育ててくれました。その恩返しがしたいと思ったら、やっぱりお金が必要だと思ったんです。親戚やご近所の方々など恩返しをしたい人が多かったので、たくさんお金を稼ぎたいと思った。言語化した時に最初に出てきた理由がそれでした。医者になって、たくさん稼いでたくさん恩返しがしたかったんです。

他にもさまざまな気持ちが言語化でき、自分の頭の棚卸しができました。例えば「人の命や人生に関わる仕事がしたい」と考えていたことなど、自分のことですが改めて色々と気づくことができたんです。言語化した自分の思考を見て、医者にこだわる必要はなかったと思いました。

それで次になりたいと思ったのがライターです。人の感情や思考を文章にできるような書く仕事をしようと決めました。

――なぜそこでライターだったのでしょうか。

実際に自分が思考の言語化をしていく中で、考えていることを文字にしていくことの凄さに気づいたからです。私は頭の中に思い描いていることや、散らかった思考を言語化したことで、人生で進むべき道を明確にすることができました。

言葉にできない人の気持ちや想いを言葉にして書きだすことで、人の人生を豊かにできると思えたんです。だから書くことを仕事にしているライターにたどり着きました。

お金を稼ぐことは、どんな仕事でも自分の頑張り次第でなんとでもできます。そしてライターになれば、取材を通じて他の人の人生に関わることもできます。自分の力で人の人生に大きな影響を与えられるのは、医者という役割ではなくライターだと感じたんです。

【Choice3】子どもの頃から“死”が身近だったからこそ、日々、後悔しない道を選ぶ

――そして県庁職員をやめてライターになったんですね。ただどうしてフリーランスという形を選んだのでしょうか。お金を稼ぎたいと思うなら、稼げるかわからないフリーランスよりも企業に勤めた方が稼げるとは思わなかったのはなぜでしょう。

私は反対にフリーランスの方が稼げると思っていました。理由としては、自分の努力が成果につながり、そして成果がダイレクトに報酬へと反映されるからです。公務員として働いていたので、その反動が多少なりともあったのかもしれません。安定しているけど、自分の頑張りが評価となって見えにくく、たくさん稼ぐことは難しいと感じていました。その点、自分の頑張りが反映されるフリーランスという働き方に、可能性を感じていたのだと思います。

――なるほど。とはいえ、実際にフリーランスになろうと決めたのは勇気がいる決断だったのではないでしょうか。

それはそうですね。Twitterを通して知り合った人や、同じようにフリーランスになりたいと考えていた人達などいろいろな人の話を聞きながら悩みました。そして様々な人と出会う中で、当時7つほど年上でデザイナーとして活動している人と出会いました。

その方が仕事面から生活面まで本当に支えてくれて、私がフリーランスになることを本気で応援してくれました。その方との出会いがなければ、もっと躊躇していたかもしれません。本当に感謝してもしきれないですね。

私はフリーランスのように「自分がやるしかない」という環境の中で、何かを頑張ることが好きなんだと思います。独立したら何が何でも前に進んでいくしかない。そんな環境です。高校受験の時に言霊やハッタリの話をしましたが、あの時のように「自分ならきっとできる」と言いながらがむしゃらに頑張ってきました。

あと心のどこかで、もし失敗したとしても自分にとっては学ぶことが多くあると思っていました。何がどうなっても、自分はポジティブに受け止めて糧にできると信じていたんです。自分が死なない限りは何度でもやり直せるので。

何かを我慢しながらや、自分はこれでいいのかなとモヤモヤしながら働き続ける方が自分にとっては辛いです。いつ死ぬかもしれない人生で、毎日、後悔しないように全力で生きるのが私なのだと思っています。

こういう考え方も、きっとおばあちゃんの影響が大きいと思うんです。

おばあちゃんが私を引き取って育てることになった時、すでに75歳くらいでした。そんなおばあちゃんに対して私はことあるごとに「生き続けて欲しい」というお願いをしていたんです。

「おばあちゃん、私が小学校入学するまで生きてね」
「おばあちゃん、私が小学校卒業するまで生きてね」
「おばあちゃん、私が中学校卒業するまで生きてね」
「おばあちゃん、医者になるまで待っててね」

と何かの節目があるたびに言っていました。

なので、私は子どもの頃から常に死を意識して生きてきたんです。おばあちゃんがいつ死ぬかもしれないと思うと、後で頑張るのではなく今頑張らないいけないと強く思っていました。

だからなのか、今でも「人はいつ死ぬかわからない、だから後悔するようなことはしたくない」と思っているんです。いつ死ぬか分からない人生で、つまらないことなんてしてられない。そんな考え方で生きています。

――どんな道を進んだとしても、佐々木さんの根本にはおばあちゃんから学んだことが土台となっているんですね。

それは間違いないですね。私はお父さんとお母さんがいないことを、よく「かわいそうだね」と言われてきました。確かにお父さんやお母さんがいる家庭はとても素敵だと思います。それでも「自分はかわいそう」だなんて一度も考えたことないですね。むしろ自分にはおばあちゃんや親戚、地域の人など私の親となってくれる人がたくさんいて、他の人よりも幸せだったと思うくらいです。

――フリーランスのライターになって良かったと思いますか。

めちゃくちゃ良かったと思っています。たくさん頑張ってたくさん稼いで、これまで私を支えてきてくれた人達に恩返しします。今の働き方を選んだこと、全く後悔していません。

のんべえライターを名乗っていますが、飲みながらお仕事をしているわけではありません……!

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