自由とはなにか
子供の頃、沢山の守るべきルールがあった。
あまり遠くにいってはダメとか、門限の時間には家に帰るとか、ご飯は残さず食べるとか、テレビゲームは1時間までとか、そういったものだ。
ただでさえ家でああだこうだ言われるのに、学校に行けば校則があり、部活を始めれば部則があり、会社に入れば社則があり、社会に出れば常識というルールもある。
思春期の頃はなぜ私達は親や先生や社会が決めたルールを守らなければいけないのかと思った。
人間というのは、これほどお互いに縛り合うのが好きなものかと。
束縛されればされるほど、反抗心と自由への渇望が沸いた。
おそらく、多くの人がルールから解放され、自由に生きたいと願っているのではないだろうか。
そして同時にうっすらと、”本当は自由になることが恐い”ということにも気づいている人もいる。
幸か不幸か、私は自由の恐ろしさを痛いほど痛感している。
12の時に母が死に、中学生の頃に2年半引きこもった。
家の中だけという狭い領域だが何をするにも自由だった。
好きな時に食べ、好きな時に眠り、好きな時に遊んだ。
身体はぶくぶくと太り、親や社会からも見捨てられた。
16の頃には父と姉が病床に入り、一人暮らしになった。
認知症の父に変わり、私が家計を管理することになった。
その数年後に私は、数百万の借金を抱えた。
東京に出て、3年間働いた後に独立した。
2年分の活動資金は半年後にはほとんどなくなっていた。
なにが言いたいのかというと
人は自由になければ、その大半は怠惰に流れていくということだ。
ここで言う自由とは、文字通り、
他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえる状態のことを指す。
ある日突然、なんの指針も縛りのない環境に放り出されると、人は二つの行動パターンしか取らない。
快楽を得るか、痛みを避けるか、だ。
今いる環境に痛みがなければ、人は快楽を得ることにしか走らない。
おおよそのパターンは散財するか、暴飲暴食するか、遊びふけるか
一種のドラック中毒のような状態になる。
そして貯金がなくなってきたり、身体を壊したり、トラブルにあったりと、
きつけのような痛みによってようやく目を覚ます。
そういうサイクルをあっち行ったり、こっち行ったり繰り返すのが無秩序のもたらす自由である。
そんなジェットコースター状態を避けるために必要なのが自分のルールである。
自由と上手く共存できる人は自分のルールがある人だ。
独立して、いろんな人と会ってきたが、上手くいっている人に共通するのはなにかしらの指針に基づいた規律を自分に課していた人だ。
皮肉にも自分を上手く束縛できる人がもっとも自由なのである。
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