見出し画像

八島国探訪、その時空に漂いながら〜茨城県②

約1万2000年前、この頃から地球規模での気候変動が始まり、世界中に「温暖」が起こる。第四氷期は後退し、天と地に水が溢れた。海面上昇の波は打ち寄せ、その海流にまかせて海成粘土は湾岸・河口に迫り、その河岸段丘を均して内陸を侵した。以後、この海進は約8000年間にも及び、その最盛期すなわち今から約6000年前の海岸線は、現在よりも約4〜6m上昇したラインを描いていたという。

この変動は植物相や動物相にも及んだ。例えば日本列島の低地ではモミ、トウヒ、マツ属などの針葉樹が優勢の植生から、クリやドングリなど、木の実の成る落葉樹や照葉樹が繁茂する山野へと様相を変えた。またナウマンゾウなどの大型獣は後退して息絶え、氷河期以来のキツネ、タヌキ、野ウサギ、ニホンザルなどはより勢いを増し、そして新たにイノシシやニホンカモシカなどが参入して森を騒がせた。ちなみに、北海道のアイヌの森にはヒグマの爪跡はあっても、イノシシの足跡は無いという。

さらに、この変動は人々の文化相にも及んだ。旧石器文化は後退し、新たな色相のある文化が出現、すなわちこの列島では ①煮沸用具としての土器 ②弓矢、落とし穴による狩猟。モリやヤス、釣針による漁撈。主に越冬のためであろう、採集した木の実などの貯蔵 ③竪穴住居による定住や村落の形成 ④主食の生産とまではいかないが一部植物栽培や、猟犬、イノシシなどの飼育、などなど。このような新たな文化・生活様式を身につけた新文化人の登場よって、前代と一線を画した時代相がその輪郭を表してきたのである。そう、縄文時代の始まりである。

約1.2万年前
茨城県内に縄文文化が現れる。①原の寺遺跡 ②東石川新堀遺跡(共に、ひたちなか市)など。

約1万年前〜6000年前
当県内に貝塚が形成される。それは海進の上昇と歩調を合わすかのように増加、また貝塚を伴う遺跡の規模も拡大していく。①大串貝塚(水戸市)②遠原貝塚(ひたちなか市)③花輪台貝塚(利根町)など

「縄文経済」などという概念は定義しようもないが、縄文海進の最盛期がそのピークだったのだろう、根古谷台遺跡(栃木県宇都宮市)の長大な掘立柱建物や、あの三内丸山遺跡のロングハウスは経済バブル絶頂期の「華」だったのだ。しかし茨城県内では、大小を問わず縄文期の掘立柱建物自体の検出例が数少ない。(十王堂遺跡、日立市、約BC1000年以降の縄文晩期の遺跡、ロングハウスではない)

約5000年前〜3500年前
この頃から気候が徐々に寒冷化に傾く。海水面も徐々に低下、約1500年を経て現在の水位に落ち着く。それと共に、陸化して面を晒した海岸部に河川で運搬された砂や泥が堆積、大きな潟や海岸平野が形成される。すなわち海退であり、徐々に引いて行く海岸線を追いかけるようにして貝塚の場所も後退して行く。①上高津貝塚(土浦市)②君ケ台貝塚(ひたちなか市)など。

そしてこの頃、当県内に環状の大規模な貝塚や集落が現れる。それは縄文晩期前夜、その最後の宴の輝きのように、であろうか。①陸平貝塚(稲敷郡美浦村)②巡り地遺跡(龍ケ崎市)など。

縄文晩期
東北の亀ヶ岡文化の南下により、その影響が列島各地に現れる。約BC1000m年頃から、水辺の多い茨城県内では漁撈が高度に発展し、霞ヶ浦周域では土器による製塩も始まる。広畑貝塚(稲敷市)など。

そしてこの頃、北部九州では水田による稲作が行われ、それに伴う道具や祭祀などの新たな文化が次第に形成、すなわち弥生文化の出現である。茨城県内にそれが現れるのは約800年後、BC2c 頃である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?