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渡米6日目 突然ホテルから追い出される!?

やはり時差ボケで2時に目が覚める。日本のフルブライト事務局から連絡があり、提出した書類に署名と日付を入れてほしいと依頼を受ける。網膜色素変性症の進行で視野が年々狭くなっていて、下段にあった署名欄を見落としていたらしい。今、街角を歩いていても本当に見えづらさを感じるレベルになってしまった。ひどい時は視界の全てに霞がかかっていて、全体的にはっきりとものが見えない。果たして、この目でどこまでいけるのだろうか。生活にすらかなりの影響があるレベルに差し掛かっている中で、今、アメリカで映画を学び、映画を撮り、家族で新生活を立ち上げるというこれまで成し遂げたことのないような離れ技をやってのけようとしている。せっかくここまで来たのだから治療の可能性も最大限探らなければと思う。

ホテル暮らしが続いていて、書類を印刷したりスキャンしたりすることが難しいため、取り急ぎ電子署名をして事務局に書類を返送した。加えて、次男の入国記録を示すI 94が取得できなかったことも伝えた。その後、米国のフルブライト事務局にも同様のことを伝えるべく、これまでの資料に読み落としがないか、渡米前に忙しすぎてしっかり目を通せていなかった資料や動画も再確認し、担当のIIEアドバイザーにメールを送った。以前、NYUに留学していた際には、IIEの担当者が国連本部近くのビルにいて、何度かことあるごとに面談し、色々と対面で相談に乗ってくれていた。だが、今は様々なことがオンライン化された影響もあるのか、担当者はシカゴにおり、必然遠隔でのやり取りにならざるを得ない。今回、初めてのコンタクトになるので、軽く自己紹介も含めて、今回のI 94の件を丁寧に説明するメールを綴り、件名の冒頭に緊急事案であることを示すURGENTと書き加えて、11時前に送信。シカゴはボストンと1時間の時差があるため10時の業務開始直後に目を通してもらえることを願って。

「嫌なら出て行ってもらっても構わない」

思わぬ”事件”が発生した。渡米前にひとまずボストンでの最初の5日分の宿を予約していて、その後も9月1日までブルックラインのマンションに入居できないことが判明したので、同じ部屋を確保してくれること条件に4日間の延泊をホテルにお願いしていた。だが、11時過ぎにフロントに降りて行って残りの宿泊費を支払おうとすると、延泊はできるものの、部屋を変わってもらう必要があるという。そうなると大型スーツケース7つ分の荷物をパッキングし直さなければならない。その時間的なロスを避けるために同じ部屋を確保できることを条件に3日前に延泊をお願いしたことを伝えても、「ホテルにはホテルの事情がある」からと全く取り合おうとせず、「嫌なら出て行ってもらっても構わない」と強気の姿勢。正直、カチンときた。こちらにもこちらの事情があるし、大体そんな横柄な言い方ってあるだろうか。レセプションの彼女と話しても埒が明かないので、マネージャーに変わってもらったが、マネージャーも同じ説明を繰り返す。こちらも同じ説明を繰り返す。話は平行線をたどる。僕の怒りはいっとき頂点に達して、机を叩いていた。だがここで感情的になっては負け。アメリカは交渉の国だ。

「あなたの名前は?」

僕は一呼吸おいて、マネージャーの彼女に尋ねた。少しメリル・ストリープのような知的な佇まいをした彼女は、名前を教えてくれた。少し落ち着いて事情を聞くと、このホテルでは毎年、9月に近くのロースクールの学生たちを長期間、受けていていて、僕たちが今滞在している3階の全室がドミトリーのような状態になるため、その準備に時間が必要なのだという。だからホテルとしては、3階の部屋に僕たちを留め置くことができないのだという。もはやそこには交渉の余地がないようだ。ここで腹を立ててホテルを出て行っても余計な時間とお金がかかるだけだ。僕は落としどころを探ることにした。

「ねえ、ポーリーさん。もし三日前に同じ部屋を確保できないことをちゃんと伝えてくれていたら、僕だってよりいい条件のホテルを余裕を持って探すことができていたと思う。でもこんな当日になってやはり約束を守れないと言われても、正直困ってしまう。身寄りのないボストンで、家族を路頭に迷わせてしまう。そんなことは大黒柱の僕としてはなんとしても避けたいしホテル側の事情もわかるけど、そのことに少し想像を巡らせてみてほしい」

彼女の名前を会話の中に散りばめながら、僕は務めて冷静に話し、そして、もし今よりも少しいい条件を提示してくれるなら、部屋を変わってもいいことを伝えた。妻に別室に移ることになるからすぐに荷物をまとめてほしいと電話で伝え、ポーリーさんには他にどんな選択肢があるか提示してほしいとお願いした。ポーりーさんも問題解決に向けて動き出した。

彼女は結局、彼女がお気に入りだという11階の部屋を提示してくれた。チャールズ川が見える西側の部屋がちょうどこのあと空きそうで、しかも普通に延泊していた場合には一泊300ドル近い宿泊費がかかっていたところを、229ドルまで値引きしてくれるという。僕がこのあと14時から外出の予定があることを伝えると、部屋が空き次第、連絡するので荷造りを進めておいてほしいと言われた。

部屋に戻ると妻は何事もなかったように、子供達と着々と荷造りを進めていた。「こういうことって、こっちではよくあることだよね」とそんな様子で。チャーミングだが肝っ玉が座っている彼女に僕はこれまで何度救われてきたことか。その後、ポーリーさんが「一緒に11階の部屋を見に行こう」と誘ってくれて、下見にエレベーターで11階に上がった。

「私もここに滞在するときにはよくこの部屋に泊まっているの。このベッドも新調したばかりなのよ」

目の前に工事現場が見えるものの、奥にはボストン中心部を流れるチャールズリバーが見えて、とても素晴らしい景色だった。明日火曜日の7時以降は工事が再開され、日中は少しうるさいかもしれないが、作業員が朝7時なると揃って体操を始めてその様子を眺めるためにこの部屋を選ぶ人もいるという。

「もちろんあなたが気に入らなければ、2時以降に東側の部屋を紹介することもできるけれど」と彼女は言ったが、僕はこの部屋に決めたことを伝えた。

その後、屈強な黒人のドアマンを301号室に送ってくれて、僕たちは程なく11階に引っ越した。子供達は、これまで全く景色が見えなかった3階の部屋に比べて、長めの良い1106号室の眺めを一目で気に入ってくれた。

重たい7つのスーツケースを部屋まで運んでくれたドアマンのリカルドさんにお礼のチップを渡すと相好を崩してこう尋ねてきた。

「どこの国から来たの?」

日本だと答えると、日本のお札が美しくて好きなので、もしあったらくれないかと言う。次男はチェックアウトする日に彼に千円札をあげたいと、そのことを楽しみにしている様子だった。こうした次男の無邪意さに触れるにつけて、僕自身がいかにそうした感覚を失ってしまっているかを思い知らされる思いがする。

その後、15時からエマーソン大学での外国人留学生向けのキャンパスツアーに参加するために、ホテルから大学に向かった。日中、スマホのGoogleマップでさえも見えにくくなってきた僕は、大学まで散歩がてらに送ってくれないかと妻にお願いした。徒歩20分の道のりを家族で歩いた。初秋を感じさせる天気がいい一日。煉瓦作りの街並みと緑あふれる公園ボストン・コモンを通り抜けて、20分ほどでこれからの2年半を過ごすエマーソン大学に辿り着いた。

集まった留学生は圧倒的にアジア系が多く、その大半が中国出身だった。あとはナイジェリアとインド、そして日本からは僕一人。オンラインで4月頃に一度集まったことがある仲間で、僕はほとんど記憶になかったが、これまで数々のドキュメンタリーをとってきたことや、「脚本から撮影、監督、編集に至るまで全てをやりたい」と話したことを何人かがよく覚えてくれていた。あいにく、オフィスがしまっていてIDをピックアップできなかったため、肝心のスタジオや編集室を見ることはできなかったが、母校のNYUと同じくキャンパスはないものの、エマーソン大学もやはり街の中心部に幾つもの校舎となるビルを所有して、街そのものをキャンパスにしている様子が感じられて、僕にはこうした大学が肌に合っているのかもしれないと感じた。加えて、パラマウントシアターという街中心部に劇場までやはりエマーソン大学のものであることがわかり、ここで年に2回、映画祭もするのだという。

僕はこれからどんな映画を撮り、どんな映画をここで上映することになるのか。この街を足がかりに、ここで出会った仲間と共に、世界と勝負したい。霞がかかった視界はこの先その濃度を増してだろう。ハンディは否めない。だが、その制約の中で、いやときにはそれさえも武器にして、作品を生み出していくしかないだろう。それが僕が選んだことであり、やりたいことなのだから。家族の元を離れて、久々に一人街を歩いていると自らの中にある素の想いに立ち返っていた。

「ねえ、パパ、夜景がとても綺麗だよ。」

夕食にWhole Foodsで買ってきたチキンとピザとスープを皆で平らげて、時差ボケの心地よい睡魔に囚われて眠りに落ちていく朦朧とした意識の中で、次男がつぶやく声が聞こえていた。

Day6 20230828(月)3049ー3228ー3300

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